2008年12月9日火曜日

家族との距離

日本ではたいてい、子供は一旦家を出たらそんなに両親に毎週会いに行ったり毎日電話したりすることはない。結婚して子供ができたら、まず毎日電話したりしないだろう。電車ですぐ行けるくらい近くに住んでいれば月に何回か会うこともあるかもしれないが、近く出なければ毎週や毎月会いに行くなんてことはほとんどない。そんなに家族べったりだとファミリーコンプレックス、兄弟姉妹と仲がいいとブラコン、シスコンと言われかねない。

特にアジアの他の国は家族との絆が強く、毎日家族に電話するのも、近くなら毎週会いに行くのも普通らしい。アジア以外でも、そこまで頻繁ではないが、家族と連絡とったりするらしい。

なぜ日本人は一旦家を出てしまうと、家族と疎遠なのだろう?

戦後、核家族を基本にした戸籍に変更された。まず核家族化により祖父母や親戚との関係が弱まった。さらに、女性は母親と仲がいいこともあるが、男性が特に疎遠になることからも、高度成長期の父親が影響したと考えられる。

その核家族の中の父親は週休一日で毎晩午前様、日曜日は接待ゴルフの日もあったり、なければ家でゆっくり寝ていたい、というのがごく当たり前で、一緒にご飯を食べるのは日曜の昼か夜だけで、ほとんど父親と会話することはなかった。会話が少なかった父親とは、あまり絆が強くないのだろう。母親は、父親のいない家庭を必死で守るため、あるいは専業主婦は子供に過度の期待をしたため、厳しく、口うるさくなりがちだったのだろう。家を出たとき、子供は解放されたと感じるのだ。

この戸籍の単位というのも自分達は独立したという感覚を強め、両親を疎遠にする原因となっていないのだろうか?例えば、独立した以上弱みは見せたくない、簡単に頼りたくない、心配かけたくないと思ってしまうと、何か問題があるときには連絡しにくいかもしれない。逆も然りで、親は自分達の老後の面倒を子供にみさせないために、自分達の心配も正直に言わないのかもしれない。

相手の家に嫁ぐという考えも影響していないとは言えない。例えば、嫁を実家と疎遠にさせる原因の一つかもしれない。というのも、男の家に嫁いだのだから孫は嫁ぎ先の孫であって嫁側の実家の孫ではない、という言葉を聞いたとき、こういう考え自体が問題なのだと思った。嫁ぎ先の両親には、お歳暮、お中元、誕生日祝い、父の日母の日のお祝いをするという考え方が原因を作る。それはいい考えだと心底思う女性がどれだけいるのだろうか?夫の両親と妻の両親の間にどんな差があるのか?どちらの両親も平等という考えでなければ、その両親と仲良くなるのは無理だろう。そういう家制度をひきずる古い考えと現代生活とのギャップが歪となって現れているのかもしれない。

どうすれ距離は縮まるのか?まずは、子供の頃によく会話をして、心配事や困ったことを一緒に処理できる関係をつくり、親との距離を縮めることだろう。その距離感は大人になっても残るはずだ。次に、古い家制度に基づく考えをなくすことだ。最後に、家族と仲がいいことを良いことだという考えを広めることだろう。

2008年12月8日月曜日

夫婦別姓

日本人は、自分が生まれた家族よりも自分の家族を持つことが重要であり、その自分で作った家族が心のよりどころとなるもので、それによって社会的信用が得られると考えているのだろうか?

日本人のライフスタイルアンケートの中で、結婚のプラス面の結果を見て2と5がおもしろいと思った。
 1. 子供や家族をもてる 64%
 2. 心のよりどころが得られる 50%
 3. 夫婦で互いに高めあい、人間として成長できる 41%
 4. 好きな人と一緒に生活できる 37%
 5. 社会的信用が得られる 29%

これは、結婚によって同姓にして戸籍を新しく作ることに起因しているように思う。つまり、自分達の戸籍を持つことが一人前になるという意味だと思っているからではないだろうか?親は子供を結婚させて戸籍を独立させるまでが親の責任と思っているからではないだろうか?

結婚して子供を育てることは人類として大切なことであり、それが自分達の戸籍を持って夫婦同姓にするということと同義ならば戸籍を持つことは重要だ。確かに、子供がいたら同姓のほうがいいこともあるだろう。だが、30年前とは違って、結婚すること=子供を育てるでもなければ、妻=専業主婦ではなくなってきているのだから、同姓の戸籍をもつことが全ての夫婦に必要なわけではない。

終身雇用制度で年功序列の会社で出世することが当たり前だった時代、会社の上司が結婚を薦めてお見合いをさせ、お仲人を務めるのが普通だった。そうして出世していくことが、社会的信用だったのは昔のことだ。今は、未婚だから何か問題がある、出世できない、というわけではなくなっている。

戸籍というものがあって姓を変えることから、嫁にやり、嫁にもらうために、結納を交わし金銭をやりとりしたが、今はそういう結納は減ってきている。嫁にいくと言っても大家族で暮らすわけではないし、女性も自分で仕事をもって収入があるようになったからだろう。それに、男性のほうが収入が少ないかもしれず収入の少ないほうからお金をもらうのも難しく、夫が妻を養うという考えもおかしいし、そんな昔の習慣に従って、昔の習慣どおりに家の嫁は家のもので家のしきたりに従ってもらいます、なんて強制される方が嫌だろう。昔は「男は家を造り、女は家庭を作る」といったが今は二人で家も家庭もつくるのだから。にも関わらず、いまだに夫の姓の家に嫁に行くという古い家制度の考えが、女性の姓の変更を強制させるのだ。

そしてその古い家制度の考えが、男女間の不平等を悪化させる。世界経済フォーラムの男女平等ランキングの発表によると、日本は130か国中98位で、しかも2007年の91位や2006年の80位よりも下がっている。だいたい先進国のランキングは高いのだが、日本は先進国ではかなり下だ。なぜ他の先進国は高く新興国は高い中、日本は低いのだろう?男女雇用均等法を作り、婚姻時の姓は夫婦どちらでもいいことになっているのに、このような結果が出、女性の97%が改姓している現実が人の意識がまだ変わっていないことを示している。

大多数の人は結婚で女性が改姓するのが当たり前という思って変えるのだろうが、結婚で姓を変えたいという人よりは、変えたくないという人のほうが多いと思う。もし男性も女性も変えたくなかったら、その古い家制度の考えにより、女性が改姓することになる。そしてそれは、その古びた家制度の考えをさらに浸透させ男性優位の社会に拍車をかけることになる。

日本は技術的には先進国かもしれないが、社会倫理的には新興国なのだろう。このまま倫理観が未発達の先進国でいいのだろうか?この悪循環を断ち切るために、戸籍上の夫婦別姓を認めてみたらどうだろうか?うまくいかなかったら、その問題を一つ一つ解決していけばいいのではないか。

成長率の鈍化した今のリソース配分

複数の部署や複数の部署、あるいは複数の関連会社から成る様々な人たちでプロジェクトを構成する必要がでてきたときに、プロジェクトマネージャーという仕事が必要になってきたのだとは思う。

では、例えば、一つの部署で一箇所で一つのプロジェクトをやる場合、その部署のマネージャーがPMをやったらどうなるか?マネージャーとしてのアドミの仕事もあるから時間的にどうかと思うかもしれないが、それは置いておいて他にも不都合があるのじゃないだろうか?

最近、プロジェクトマネージャーは実際のマネージャーにとって便利だから、というのが存在理由になってしまったような気がする。
1.マネージャーがプッシュするとパワハラでも、PMがプッシュする分にはパワハラにはならない。しかも、スケジュール管理が自分の仕事だからということでPMがしつこく進捗を聞いても、それが仕事だから誰も何も言えない。
2.特に何かできる技術がなく、どのグループでも仕事がない場合、その人にPMという仕事をあげられる。
3.昇進させてあげられないが何か良いものを持っている人に対し、PMにすることでマネージャーという名前をあげることができる。

結局、PMってなんなんだろう?IT業界が二桁の成長率のため猫の手も借りたい状態だったときに、優秀な人材の数は限られていた。優秀な人にばかり仕事を集めると、スタックする。いくら優秀でも人間だから時間がかかるのだ。それで、それ以外の人材に仕事を割り振る必要があった。例えば、専門技術がなくても、その優秀な人がいれば、その人に聞きながらPMができる。FAEに関しても同じことが言える。優秀な人が裁ききれる量に限りがあるので、顧客からの簡単な質問はFAEに答えさせ、フィルターをかける、など。マネージャーだって同じだ。部署が多くなり、次々に新しいマネージャーのポストができた。マネージメントが何かなんてろくに知らなくてもマネージャーになれた。

プロジェクトが減った今、ほんとうにそれらが必要なのだろうか?例えば、マネージャーが兼任できるPMというのもでてくるのではないだろうか?困るのは、マネージャーはあまり部下をプッシュできないということくらいだろう。

業界の急成長がこれらの冗長な仕事をたくさん作った。二桁成長の見込めなくなった今、会社はこれらの冗長仕事についている人たちを切るのだろう。

2008年12月2日火曜日

高品質 → 長期耐用年数 → 環境に優しい

アメリカは、品質に対する感覚の緩い国だと思う。

アメリカ人に言われたことがある。「日本人は人の失敗をずっと覚えていて許さない。」何のことを言っているのか聞いてみると「うちの製品で一度不具合があったことがある。日本人の客はそのために、その後ももううちの製品は二度と使わない」ということらしい。そのときの客の状況・彼らの対応の仕方等、細かい状況を聞いてみないとよくわからないが、非常に腹が立つものだったのだろう。彼曰く「ドイツの客でさえアメリカに近い」と。以前、アメリカに住んでいるドイツ人に似たような質問をしたが、彼はドイツは日本とアメリカの中間だと言っていた。

再びアメリカに住んでいる別のドイツ人に聞いてみた。彼はそんなに日本の客を知っているわけではないので、日本との比較の信憑性はいまいちだが「その話の日本人ほどではないかもしれないけど、ドイツはアメリカよりも品質に厳しい。子供の頃から品質に厳しくなるよう教育されてきたんだ。安くて悪いものを大量に買うよりも、高くてもいいものを少し買うほうを選ぶ。車だって、一度買ったら大切にずっと乗り続けるんだ。安いものを修理しながら使うよりも、高くてもいいものを使い続けるほうが、長期的にはコストを抑えられるという教育をするんだ。でも、家は買わない。仕事が変わったりすると引っ越さないといけないから。」と、少なくともアメリカよりも品質はいいことを誇っていた。

アメリカ人にとって中国の客が接しやすいと感じる理由の一つが、品質に対する感覚の近さではないかと思う。品質に小うるさい日本やドイツと違って、アメリカや中国はあまりうるさくないので取引しやすいのだろう。言い換えれば、品質をあげるためにお金を払いたくないのだ。ゴミにお金を払わない国に住んでいるが故の感覚だろう。

では、お金をかけずに作った製品の品質に問題があったら、どうするのか?以前アメリカ人が自慢げに言っていたことがある。「うちの製品で問題があったことがある。でも、値段を下げると言ったら、そのまま使い続けたよ。」クレームを言う人にはお金で対処するのが当たり前なのだ。そういう私も、本を買うときにちょと汚れていたので「きれいなのはないの?」と聞いたら、安くしてくれたのでその汚れていたのを買ってしまった。日本なら「今在庫がきれていますので、新品を取り寄せます。」と言うところだろう。

日本では粗大ゴミを捨てるときはお金を払うのに対し、アメリカでは粗大ゴミは家の表に出しておけば誰かが持っていくし、チャリティのお店がひきとってくれるのでお金を払う必要はない。その結果、新興国でそのごみが問題を起こしている。アメリカから送られたe-Waste(家電ゴミ)が、新興国に有害物や発癌物質による問題を起こしているらしい。バンガロールの子供達が血中の鉛のせいで深刻な被害にあっていると聞いた。
ヨーロッパや日本はリサイクル等に厳しい。また、日本だって、私が子供の頃は、粗大ゴミを捨てるのにこんなにお金がかからなかったと思う。お金がかかり始めた頃は「なんでゴミにお金を払うんだ」と不満だったと思うが、リサイクルにはお金がかかるのわかるし、今では当たり前だ。アメリカも一旦始めてしまえば、それが当たり前になるだろう。

アメリカでは返品が簡単だ。壊れたり、何かが気に入らなければレシートと持っていけば、返金してくれたり新品と交換してくれる。だから、購入者にしてみれば、商品が簡単に壊れても取り替えればいいだけなので、あまり深刻にならない。深刻にならないだけであって、もちろん壊れるものがいいわけではないので、値段にあまり差がないなら、壊れないほうを買う。とはいえ、この返金・返品制度も品質を悪化させる原因のような気がする。製造者側にしてみれば、返金や新品との交換の代金の方が、クレーム対応のコストより安いのである。例え色が気に入らなかったとはいえ、返品された製品はどうなるかというと、もちろんごみになるのである。製造者にごみ料金を課せば、このシステムは変わって「返品お断り」になるに違いない。

こういった品質感覚の違いを作るものには、「生活環境の安定性」や「労働力のコスト」があるのではないかと最近思う。すぐに引っ越すかもしれない、またすぐに別の仕事に移るかもしれない、という生活環境では、高いものを長期で持つにはリスクがある。高く売れるかわからないものよりは、安いもののほうが売りやすいからだ。また、安価な労働力を持つアメリカや中国では、問題があればまた作ればいい。安いのだから。ところが日本は、終身雇用がベースにあった社会であり、基本的には頻繁に引っ越すわけではない。日本では引越し代が高いし、賃貸なら敷金礼金も高い。また、安価な労働力を持たないので、また作ればいいとは思えない。最初から高品質なものを作り、長く使うことが長期的には安く上がると考えるのだろう。ドイツではあまり家を購入しないというのならば、そのことが品質感覚において、ドイツを日本とアメリカの中間に位置させているのかもしれない。

高品質であるということは、壊れにくく、しかも耐用年数が長いことにつながる。耐用年数が長ければ、無駄なごみを抑えることになる。つまり、環境に優しい。この考え方は、グリーンテクノロジーが注目をあびる今の時代にとって強力な武器になるだろう。しかも経済悪化により製品サイクルが伸びている今、時間をかけて高品質な製品を少量開発する方が、開発しやすい。注目される市場も、PCや家電から、メディカルや車載、セキュリティ等高品質が求められる市場に移行してきている。いろいろな流れが、高品質を示しているように感じる。

この環境への影響の低さを売りに、高品質の製品を売り込んだらいいのではないだろうか?

信用するための基準とは

返済しきれない程の借金が、この金融破綻を引き起こしたアメリカ。
社会的信用度ゼロからスタートし、借金をすることで信用度が上がっていく加算方式だから、より多額の借金ができることが信用度の高い人であり、ステータスにもなる。クレジットカードの色、すなわち最高限度額の違いがステータスだと言えば、日本人にもピンとくると思う。そういう考えである以上、借金することは悪いことというよりも良いことのように感じる。

クレジットカードとは、信用貸しするカードなのだ。日本ではクレジットカードは翌月全額自動引き落としされるのが当たり前だ。アメリカではクレジットカードは貸付カードなので、最近までクレジットカードの自動引き落としという概念がなかった。翌月明細を見て自分でいくら返済するか決める。例えば1000ドル使ったとしても、最低15ドル程度払えばいい。残りは今度お金があるときに利息と一緒に払う。毎月全額払う私にとっては面倒以外の何者でもないが、フィッシングの多い最近は確認する必要があるのでしょうがない。

余談だが、アメリカのクレジットカードには詐欺の保険の他、事故や病気による失業保険の加入を勧めるものが多い。それだけ、詐欺や失業が多いということなのだろう。日本のカードの海外旅行保険を考えると、平和な国だと思う。

日本人は、日本人という国籍に対して信用を与えるのだと思う。だから、まずデフォルトで信用度○を与えられる。借金をしてブラックリストに載ったり何らかの問題を起こすと、そこから減点される減点方式だ。だから、自分が社会的信用を失うことを極端に恐れ、社会的信用を失うことをした人に対して極端に厳しい。失敗するくらいなら何もしない方がいいと保守的になり、失敗した後立ち直るのに時間と相当の努力を要する。

その日本人という信用の存在は、日本に住む外国人を見るとわかる気がする。例えば、日本人が東京で家を借りようとすると保証人は一人でいいが、彼らが東京で家を借りようとすれば保証人が二人いる。日本人という信用を持っていないからだ。アメリカで家を借りるのに保証人はいらない。デポジットとして少しだけ払っているだけだ。デポジットといっても日本の敷金と違って、1700ドルの家賃でも200ドルから500ドル程度だ。礼金はない。ただし、ここでもクレジットヒストリーが重要で、ないと500ドル、あれば200ドルということになる。つまり、払えなくなった場合に責任をとる保証人でなく、自分個人の信用度がどれくらいかで判断されることになる。

クレジットヒストリーという信用度で判断するシステムでありながら、その信用度の低い人に多額の貸付を行って経済が混乱したアメリカ。今、市民権を持たない人に対し、その信用度に対するチェックが以前よりも厳しくなってきた。移民の受け入れにも消極的になってきている。私もその影響を受けているので、他人事ではない。

日本人同士という信用が自分達の根底にあるため、他国から売り込みにくる人やものをなかなか受け入れられない日本。信用は減点方式であるため、アジアからの輸入食品に問題があってから不信感をどんどん募らせる日本。

今、社会全体が、お互いに懐疑的になっているような気がする。手放しで信用することがいいこととも思わない。信用するための明確な基準がほしい。