2009年6月22日月曜日

常識を捨てて相手を理解してみよう

グローバルな人材の定義というと、ビジネススクールにあるような授業のタイトルを並べることが多い。ちょっとうんざりする。定義よりも大事なのはその本質なのではないか。

私が日本人以外と仕事をするようになって最初にぶつかった壁は、「私にとっての常識は相手にとっては常識ではない」「自分にとっての当たり前は相手にとっては当たり前ではない」ということだ。
私たちは学校で先生から、家で親から「〇〇するのは当たり前」「XXしないのは当たり前」と言われ続けてきた。例えば「目上の人に敬語を使うのは常識」「周囲の人に合わせるのは当たり前」という風にだ。この「常識」や「当たり前」の感覚を取り払うことが最初の一歩だと思う。

あくまでも「常識」や「当たり前」を取り払うのであって、別の新しい「常識」や「当たり前」を身につけてしまったら、それもグローバルではなくなる。他の地域にローカル化されたにすぎない。まあたまにかぶれてしまって「日本って信じられない。向こうでは〇〇が当たり前なのよ」などと言い出す人もいるが、これは他の地域でローカル化されてしまった人の典型だ。

身近な例をあげよう。「ある人にとって10分前集合は当たり前」であっても「私にとっては当たり前ではない」上、私が10分遅刻したとする。その「ある人」にとっては20分遅刻であるのでそれを20分遅刻並に怒ったとする。もしもその人が10分前集合を前提としていることを知っていれば、納得はしないが、その憤りは理解はできる。知らなければ、「たかだか10分で細かい人」と思うかもしれない。

ここで大事なのは、「納得するか」でなく「理解できるか」ということなのだ。相手と同じ「当たり前」を身につければ納得できるのだが、そうすると今度はそれが当たり前でない人の感覚が納得できなくなってしまう。つまり「相手はこう考えるから、こういう反応をするのだ」ということがお互いに理解できれば、わかりあえたことになる。この「お互いを理解しあう」「わかりあう」というのがグローバル化にとって大切なのだ。

理解できれば、相手のことを「おかしい人だ」なんて思わなくなる。「おかしい人」なんて世の中にはいないのだ。もしも「あの人はおかしい」という言葉が口をついて出たら、「自分はあの人のことを理解しようとしたのか」と自問自答してみよう。理解できたら、相手のことを「おかしい」なんて言わなくなるだろう。代わりに「彼はね、〇〇なだけなんだよ。」と言うようになるだろう。

簡単なことだ。人それぞれであり、相手は違うんだということを理解する。まさにダイバーシティだ。そして、相手を理解しようとすること、相手に理解してもらうこと。これがグローバルの本質だと思う。