2007年10月24日水曜日

ダラスに到着した

日本での休暇を終え、ダラスに到着した。

数年前にできた新しいターミナルなので、きれいで気持ちがいい。
AVISの人が、カリフォルニアのドライバーライセンスを見て、山火事のことを聞いてきた。日本にいたので知らないと言ったら、教えてくれた。シェルターに非難した人もいたらしい。

ホテルでシャワーを浴びてうとうとしていたら、私の車を持ってきてくれた。
車は、新しい土地で、なんだか照れくさそうにしているように見える。いきなりこんなすごい立体交差している高速を見て、ちょっとどきどきしているのかもしれない。シリコンバレーには立体交差なんてなかったから。東京みたいに狭いところに行ったら、たぶん動けなくなってしまうかもしれない。

11月16日までアパートには移れないので、しばらくはホテルで生活。ご飯が不便だが、たぶんあっという間だろう。

2007年10月17日水曜日

サンノゼを出発した

サンノゼを出発した。

サンノゼで9:15発の飛行機に乗り、ロスで乗り換えて12:00発の便に乗った。
8時過ぎにサンノゼで発見してもらったときにはロス発のチケットももらったのだが、10時半過ぎにロスのラウンジに入るときにはそのチケットはキャンセルされていた。カウンターの人は「あなたがキャンセルしたの?」から始まり、最終的には「何が起こったのかわからないわ」と両手を挙げていた。とにかくrebookしてもらった。まあ、私が飛行機に乗っている間にアメリカンの人が、他の誰かと間違えて私のチケットをキャンセルしてしまったのだろう。
飛行機自体が空いていたから、問題はなかったが、混んでいる時期ならもちろん、乗れなかった。

昨日のアパートのインスペクションも3時からとちゃんと確認の電話をしておいたのに、3:20になっても誰も来ず、諦めてオフィスまで呼びに言った。オフィスの人は私と3時の約束をしたことを覚えていたが、担当の人は3時なんてことは知らなかったようだ。1 bedroomで月$1725も払っているアパートでもこの対応なのだから、諦めるしかない。

こういうことが毎日起こる度に「またか」と思っている自分に、アメリカという国に大分慣れたなと感じた。「またか」と思えるようになったことが、一年半での一番の成果かもしれない。

2007年10月16日火曜日

シリコンバレー最後の日だった

朝から一日忙しく、レンタカーでPalo Alto, Sunnyvale, San Jose, Milpitas, Mountain Viewと用事を済ませていった。シリコンバレー最後の日だった。

明日の2007年10月17日に発つ。2006年4月17日に来たので、ちょうど一年半いたことになる。運転しながら、せっかくついたこの土地勘も一年もすると忘れてしまうだろうと思った。

ここは、とにかく自然の多いところだ。家や建物は木や花に囲まれ、山も見えるし、湾もある。ちょっと行けば太平洋にでる。近くの公園には鹿がいるし、見たことはないが、ボブキャットやマウンテンライオンもいるらしい。家の周りではリスや大きなウサギがいたし、アライグマを見たことがある。
街はあまりないが、自然は豊富だ。

あっという間の一年半だった。

2007年10月15日月曜日

アパートから出て行った

いよいよアパートから出て行った。

昨夜遅くまでいろいろ片付けていたのに、今朝は8時50分に引越しやさんが、9時過ぎには車の受け取りの人が来た。

全て引越しやさんがつめてくれるのだが、触られたくない最低限のものは自分で詰めた。見たところ、やはり一番時間がかかっていたのは台所だった。大事な食器は一部別にしておき、「これは注意して包んでね」と言ったら「全部注して包むから大丈夫だよ」と軽く言われた。しつこく、「他のよりも、これらは特に注意して」と言ったが、「大丈夫、注意するから」と軽く返事された。まだかなり心配だ。

お昼に1時間弱休んだものの、1:30頃に全て終わった。その後しばらくして雨が降ってきた。雨が降る前に終わってよかった。

夕方車で走っていたら、雨がやみ、空に大きな虹がかかった。邪魔するもののない空には、虹の半円全てが見え、気持ちよかった。

2007年10月12日金曜日

すごいどしゃぶりだった

先週の洗車が完全に無駄になるほど、すごいどしゃぶりだった。

車の色に関して、シリコンバレーは割と淡い色が好まれている気がする。東京や今度移る先を見ると、もっと色がはっきりしていると思う。たぶん、ここには閑散とした白っぽい小さなオフィスビルと緑しかないからだと思う。東京や今度移る先には、緑よりも、暗い色の建物の方が多く、そこには色とりどりの看板やネオンがある。ところが、ここにはそういった看板やネオンがない。
目が周囲の色に慣れると、意図せずともそういうものを選ぶようになるからだろう。

そういえば以前、日本に住んだことのある中国人に「日本は物価が何でも高い。でもアメリカの方が高いものが一つある。中古車だ。」と言われたことがある。日本ではここのように中古車が売れないからだろう。本当に中古車を買う人が多いのに驚く。あるいは、車をリースという形で手に入れる人もいる。

それと、田舎だからだろうが、ピックアップトラックのような大きな車で会社に来る人もいる。どう考えても会社まで一人で乗ってくるには燃費が悪い気がするが、大きな車が好きなのだろう。

大きいのが好きなのは、もちろん車だけではない。職場のSunnyvaleから一時間のところに7 bedroomの家を$1Mで買ったというから不思議だ。掃除することを考えたらうんざりする。

本当に大きいのが好きなんだなと、つくづく感じた。

2007年10月11日木曜日

突然の電話にあきれた

やっと細かい手続きが進みだしてほっとしていたら、突然の電話にあきれた。

引越しのコーディネートをする人と、引越しの日程を先週話してから待つこと一週間、火曜にやっと日程決定の書類が送られてきた。来週の月曜の引越しなのに、今週の月曜にも連絡が来ず、他のことの手続きが全くできず、いらいらしていたものの、いろいろ調整をしてくれていたんだとばっかり思っていた。

が、いきなり「明日車を取りに行きたいけど、いいか」と夕方電話があった。もちろん、火曜日の書類に15日引取りと書いてあった。理由は「明日が都合がいいから」だそうだ。変更することは悪いことだとは全く思っていない。しかもいきなり夕方で明日ときた。

実はこの間わからないだろうと思って気軽にゼリーを鞄に入れて飛行機に乗ろうとした。ところがセキュリティで見つかってしまい、だめだと言われた。ところが、しばらくして検査官の人が周りを見回して「今回は見逃すけど、今度は駄目だよ」と小声で言って返してくれた。
昨日のホテルのチェックアウトも11時までだったと思うが、ちょっと遅くなって11時20分ごろチェックアウトに言ったが、何も言われなかった。
エレベーターでペットボトルの水を運んでいたおじさんがいたので、ついペットボトルをじっと見ていたら、「あげるよ」って一本くれた。

いずれも、日本ではありえないことだ。

よく言えば、細かいことを気にしないおおらかな人たちで、悪く言えば、決められたことを守れない人たちなのだ。慣れたとは言え、急いでいるときはイライラしてしまう。
日本人は、よく言えば、決められたことをきちんと守れる人たちで、悪く言えば、融通の利かない人達なのだと思う。

ここで暮らすこつは、決めたからといってその通りになると思わないこと、反対に、決めていても後から変更がきくということだ。

2007年10月10日水曜日

家の契約をしてきた

昨晩いろいろ考えて決め、今朝さっそく家の契約をしてきた。

私は2都市でしか家探しをしていないが、そのどちらでも、必ずアパート内にLeasing Officeがあり、そこで家の説明から契約までできるようになっている。空きがあればその部屋を見せてもらえるし、ない場合はモデルルームが見れた。部屋の見れないアパートなんて一軒もなかったのだ。そして、そのオフィスの人は部屋を見せたり、メンテナンスに連絡をしたり、事務処理をする人たちなのである。

だから、日本では一般の賃貸情報のサイトで探し紹介した不動産屋に一か月分の紹介料を払うのがほとんどだが、日本でもその物件のオーナーの不動産屋に直接コンタクトすれば紹介料を取られない。それと同じだ。前はアパートメントガイドに載せてアパートからお金を直接もらっていたが、インターネットに物件情報が出回っているので、それも難しくなったのだろう。そして、載せてもらうことでお金を払うのでなく、入居したら紹介料を払うシステムになったのかもしれない。広告をクリックするとお金が入るのと一緒だ。

家を探す側から見ると、引っ越してくる人は遠くから来る場合が多く、そういう人にはインターネットで家を探せるのは便利だ。これは、物件情報のリーチ(到達範囲)がインターネットのおかげで広がったことなのかもしれない。しかもその距離にリッチネス(濃度、豊富さ)が影響しないのがいい。

飛行機が出発する直前まで左も右もブラックベリーでメールをやりとりしていた。そして飛行機の車輪が地面についた途端ブラックベリーを触り始めた。立ち上がってみると、後ろはiPhone、前もブラックベリーでメールをいじっていた。

いつでもどこでもメールがいじれるようになったが、本当にそんなに必要があるのだろうか??
ただのメール依存症かもしれない。

2007年10月9日火曜日

アパートを見て回った

今日は一日かけて、5件のアパートを見て回った。

例のアパート探しの人は結局断った。家探しの日にちを言った時に日程を決める前に相談してほしかっただの、私の電話の留守電が短くて入らなかっただの、最初の電話でだらだら文句から始めたから印象が悪かった。おまけに私が知っている以上のいいアパートを紹介してくれたわけでもなく、紹介料ほしさに朝9時から12時にだだだっと全て見て回るつもりだった。

私には一緒に行っても利点がなかったので、カーナビを借りて自分で回ることにしたのだ。
前の晩ホテルに12時に着いたので、断っておいてよかった。朝ごはんも食べて、自分で10時からゆっくり見て回った。

あるアパートのオフィスの女の子が、母親が沖縄出身の日本人で、自分は横須賀で10歳まで育ったと言っていた。父親が米軍で働いていたらしい。大学でも日本語を専攻していて、日本で英語の先生をしたいが、母親に「あなたは完全にアメリカ人だから無理よ」と言われたらしい。なぜ無理なのかというと「小さい家に住むのが難しい」とかいう理由らしい。確かに、広い家に慣れると狭い家に戻るのはけっこう難しいものだ。

そういえば以前、中国人に「あるとき突然従妹が、自分は日本人だ、と言い出して驚いた」という話を聞いた。中国残留孤児だったらしい。子供の頃は隠していたので、全く知らなかったと。その人は日本に言ったらしい。中国人からの意見が聞きたくて、「なんでその従妹は日本に行ったのか?」と聞いたら、「日本の方が仕事もあるし暮らしもいいからじゃないか」と言っていた。

今まで新聞やテレビ等遠くの話だった人が、USでは身近にいるんだなと改めて思った。

2007年10月8日月曜日

家探しに出発した

楽しみにしていた家探しに出発した。

サンノゼ空港で飛行機が滑走路に出たところで、エンジンがおかしいということでUターン。直そうと30分くらい奮闘したが諦め、別の飛行機に乗り換えさせられた。1時間半遅れて着いたため、着陸が夜の10時半になっていた。

AVISでさっさと車を借りて行きたかったのだが、話したかったらしく、長くなってしまった。アパート探しに来たというと、わざわざアパートメントガイドをとってきてくれ、住むならここがいいといいながら、皆で本に印まで付けてくれた。おまけに裏でフットボールの試合を見ていて、試合にかけてて勝ったとかいう話にまでなった。

さらに対応してくれた人は中国人で、日本人は漢字を使うけど読み方が全く違ってわからないとか、韓国人は昔の本は漢字で読んで、今のは違う文字を使うからたいへんだとか言っていた。前はロスに住んでいて、親戚は今もロスにいるが、ロスは土地も高いし地震があるから嫌でこちらに来らしい。

結局とても長くなってしまったのだが、代わりにいい車を手配してくれた。レンタカーやがどの車を貸すかは、カウンターの人の気持ち次第だといつも思う。

2007年10月5日金曜日

洗車しに行った

9月21日金曜日ににレイオフのあったその後の週末は久々の雨だった。夏に雨が降るのは珍しく、タイミングが良すぎて嫌な気さえした。それで車が汚くなっていたので、やっと今日洗車しに行った。

洗車場で車を洗ってもらうのを待っている人が何人かいた。私の横にいた人は40代半ばから50くらいの男の人だと思うが、一生懸命ブラックベリーでメールを見たりしていた。
彼は、ニューバランスの黒いスニーカーに薄手の白い半パン、おまけに昔流行ったチュッパチャップスのような棒の付いた飴をくわえている。しかも、ブラックベリーの手にはもう一本その飴を持っている。そのうち、ブラックベリーを半パンの横のポケットにスポッと差し込んで飴を口から出したり入れたりしだした。
その人のものとおぼしき車は、立派そうで大きく、タイヤのホイールまでピカピカだった。

その少年のような格好と、車やブラックベリーは、私から見るとアンバランスで、つい繁繁と見てしまった。

そのうち、ゴミの収集をしている男の人が近くのゴミ箱に来た。彼は上半身裸で、ずり落ちそうなズボンから、腰のあたりにチェックのパンツを出していた。

まあ今日はカジュアルフライデーだからかもしれない。

2007年10月4日木曜日

また家を検索してしまった

思っていたとおり、家探しの人から昨日来た候補は目新しいいい物件がなかった。そこで、もっといい家があるのではないかと思って、また家を検索してしまった。

昨日の家の紹介料を利用したビジネスモデルの中で、「家探しをする人にとっての顧客は誰か」と考えた。お金を払うのが客ならアパートだが、そのアパートを客として扱っても仕事は得られない。客として扱うべきなのは、家を探している私達になる。

これは、ネット広告を利用したビジネスモデルと同じことだ。客となる対象は、お金は払わないがホームページを見る私達でもあり、お金を払って広告を出す企業側でもある。

三者全てが存在して成り立つビジネスモデルの場合、エコシステムという言葉がしっくりくる気がする。エコシステムと聞くと環境にやさしいシステムと思うかもしれないが、「生態系」と日本語に訳した方がぴんとくる。私達消費者にとって生産者だけでなく、細菌等の分解者も存在しないといけないと昔習ったあれだ。

こういう場合、Win-Winでなく、Win-Win-Winの関係を作らないといけないわけだ。

2007年10月3日水曜日

家を検索してみた

私にとって大事なのは、住む家。妥協は許されない。だから今日は一生懸命家を検索してみた。

家探しの人からいくつか候補を送ってもらったのだが、その中で良い物件は、すでに何十回もそのホームページを見た物件だった。だからその送ってもらった情報は、役に立つ情報ではなかった。

彼女はただで家探しをしてくれる。私がアパートでアプリケーションを書くときに、紹介者のところに彼女の名前を書いてあげて、私が入居すると、アパートが彼女に紹介料を支払う。今のアパートでも入居者を紹介すると$500くらいもらえたはずだ。それを利用して商売している人が多いのだ。「ただで家探しをします」というページがたくさんある。

家探しのホームページもそれを利用したものが2種類ある。一つは、そこのホームページにはアパートの写真と宣伝文句だけが書かれているがアパート名とか詳細情報がなく、そこにメールを送るとアパートの詳細情報をくれるようになっている。もう一つは、詳細情報も全部見れ、かつ物件によっては$100とか$250とかのクーポンがある。そのクーポンを持っていけば私も$100とか$250とかもらえ、そのホームページの会社にもお金が入る。

アパートの紹介料を利用したビジネスモデルだ。

現地の地理に問題がなく、自分で電話したりする手間暇を惜しまなければ、家探しを人に頼まず、自分でクーポンを持っていった方がお得だ。

2007年10月2日火曜日

一気に連絡が来た

引越しのコーディネータ達、家探しの人から、一気に連絡が来た。

コーディネータ「達」と読んだのは、引越しのために3人と連絡をとったからだ。コーディネートをする会社の人、ローカルな引越し業者の人、その引越し業者の見積もり担当者だ。

コーディネータはここにいるわけでもなく、引越し先にいるわけでもない。全く違うところにいる。だから彼女が全ての窓口になることはできず、四人の連絡の関係が四角形の状態で、左の人が言うことと、右の人がいうことが食い違うという状態である。会社が違うからだという。結局、右の人と話した後、今度は自分で左の人と話をする必要があるのだ。

会社が地域ごとにローカルな引越し業者を探すのは手間なので、そういう手配をやってくれるコーディネータが必要なのだろう。

家探しの方の人は、15年もそのエリアでこの仕事をしていると言っていた。だいたいいつも決まったところに連れて行くのだろう。あまり期待できない。

シリコンバレーに来たときも家探しの人に連れて行ってもらったところにあまりいいのがなく、結局その後自分で探したところにしたのだった。自分で探す必要があるだろう。

2007年10月1日月曜日

転勤をアシストする会社と話をすることができた

先週の火曜日からお願いして待っていたのだが、やっと転勤をアシストする会社と話をすることがきでた。

家を売ったり買ったりする人はたいへんだろうが、私の場合はアパートなので簡単だ。賃貸契約期間前の解約によるペナルティは、3ヶ月分まで払ってくれるらしい。東京に住んでいたときは契約更新時に一か月分払っていたが、こちらでは更新料なんてない。今回のペナルティが一ヶ月+ちょっとであることを考えれば、こちらの方が安くすむ。

そういったいろいろ細かいRelocation Policyの説明をしてもらっておもしろいと思ったのは、各項目費用に対し、課税対象か、税金の補助があるか、課税控除か、が明確にしてある。とにかく税金の高い国だからだと感じてしまう。

その転勤のアシストをしてくる人が、この後引越しのコーディネータや家探しの人にコンタクトしてくれることになる。

新しいことだらけだとおもしろいと思うが、疲れるのも事実だ。

2007年9月28日金曜日

ちょうど一ヶ月経った

レイオフの宣告を受けてから、ちょうど一ヶ月経った。

その間に新しい仕事を見つけ、シリコンバレーから出て行くことを決めたが、USやシリコンバレーって何なのか、なぜそこで働く必要があるのか、考えていた。日本から来たときは、USとシリコンバレーに対する探究心だった。

なぜUSに行ってUS企業で働く日本人が少ないのか、なぜ日本人は他のアジアの国よりも英語が苦手で、ビジネスにおいてもなぜうまく絡んでいけないのか。

一つ実感したのは、他のアジア諸国に比べて日本は恵まれているから。働ける会社が十分にある、給料もそこそこ、物もある。アメリカ人が他の国に移住しないのと同じだ。そういえば、日本の給料は額面的にはシリコンバレーよりも安く感じるかもしれないが、税金が違う。Income Taxとして、35%くらいは引かれ、消費税やその他も税ももちろん日本より高いのだ。例えば毎月の給料が$10,000だとして、税金だけで$6,500に減り、さらに他にも天引きされてもっと少なくなっているわけだから、半分しかもらってないような気分になる。額面だけ比較して嘆かない方がいい。

恵まれていると必死さが足りなくなるのだと思う。その必死さがないから、積極的になれないのだろう。

そして興味のあったもう一つは、多くのIT企業が立ち上がるシリコンバレーとはどういうところか。

私はエンジニアとして一年ちょっと働いただけで、会社を立ち上げたわけでもないので、そこまではわからなかった。ただ、ここで会社を転々としてエンジニアとして働き続ける彼らを見ていて、IPOで一儲けすることを夢見る理由がわかったような気がした。年齢に応じて徐々にエスカレーターを昇っていく日本企業と違って、会社を転々とするエンジニアのほとんどにはそんなエスカレーターはないのだ。せめてIPOにのっかって儲けたいと思うのは当然だ。彼らだって、給料はそんなによくなくても、いいポジションがもらえるならそこに行く、名誉欲のある普通の人間なのだから。

私はUSに残ってまだまだこの探求を続ける。

2007年9月27日木曜日

日本はどういう国かと聞いた

インタビューに行ったときに、彼らから見て日本はどういう国かと聞いた。

おもしろいことに、いきなり「男社会」という答えが帰ってきた。私が女だからかもしれないが、それにしてもそんな答えが返ってくるとは思わなかった。私から日本では女はたいへんだなんてことを言ったことはないが、向こうから何人もそのことを切り出してきたから驚いた。

よく考えてみれば、私が家族もなく単身USに働きに来た上、今回も日本に帰らずこちらで職を探している理由が、日本では女性は就職しにくいからと見えたのかもしれない。なるほど、と思った。

日本の会社では男が優先されるのは、話題にすることもないくらい、私にとっては当たり前のことだ。ただ、USの人間がそれを認識していることは意外だった。こちらに来て感じたのは、日本人女性と違って、特に中国人、インド人女性は自分で仕事を持って逞しく生きているということだ。

侵略されたり迫害されたりしたものは、強くなるということなのだろう。

2007年9月26日水曜日

アパートの解約をした

いよいよ引っ越すことが明確になったので、アパートの解約をした。

12ヶ月の賃貸契約を5月にしたばかりだったので途中で解除することになる。私の住んでいたアパートでは、解約の申請から一ヶ月は支払いしなければならないのに加え、二つ選択肢があった。
1.$2000払う。
  ただし、借りるときに受けていた割引サービス等はなくなる。
2.次に入るまで、そこの家賃を払い続ける
おそらく一ヶ月くらいでみつかりそうなので、下のほうが安そうだが、精算が面倒なので1にした。

一ヶ月以内にはここを出て行くことになった。

2007年9月25日火曜日

遂にオファーを受けた

やっと7日経ってオファーが来たので、遂にオファーを受けた。

正式な異動の日付が9月16日で9日前になっていたので、間違いかと思って電話した。

ところが、これは意図的だった。会社は2週間単位で給料を処理するため、異動もそれに従わなければならない。次の異動可能日は10月1日になるが、そうするとレイオフの予定だった9月21日を過ぎてしまうため、一度レイオフしなければならなくなる。それを避けるために、前の9月16日にしなければならなかったとか。

そのために異動先の部署は、9月16日から給料の支払いをすることを承認してくれた。

システムいうのは融通がきかないものだ。

2007年9月24日月曜日

ちょっと振り返ってみた

期限の三週間が過ぎて落ち着いたので、ちょっと振り返ってみた。

会社に残るか、日本企業に移るしかないとわかったとき、「会社に残るため本社のあるところへ引っ越す」とすぐに決めた。
どうしてもシリコンバレーに残りたければ二つ選択肢があった。
 1.小ぢんまりと残った小さいチームに移って、
新しい仕事を初心者としてやる
 2.シリコンバレーの日本企業に移る

でも、自分のキャリアパスにとって有効かどうかが、次の職場を決める上で大事なので、それらは選択肢に入らなかった。
それに、よく考えてみれば、いい場所に住みたいなら、シリコンバレーに来ないで東京にいればよかったのだ。私にはシリコンバレーよりも東京の方が住みやすい。

USに来たのは、USの会社でキャリアを積みたいと思ったからだ。

今回の異動は、幸運にも、私のキャリアにとっていい方向に進む。

2007年9月21日金曜日

期限の日が来た。

遂に、期限の日が来た。レイオフの執行日だ。

朝8時半から、一人30分ずつ、人事との面接をして、バッジやPC、コーポレートカード、携帯を返却していった。意外にも延長もなく、時間通りに進んでいき、私の番が来た。

実は内々定はもらっているものの、正式なオファーのプロセスをふむため、それともう一つの方を断るために、今日は朝から電話で格闘していた。何件か断りの電話をすると、少しほっとした。
それと、オファーを受ける方の手続きがまたたいへんだった。

オファーを出す相手は決まっていても、求人情報を最低7日間はウェブに公開しなければならない。そして、7日間は誰にもオファーを出せないよう法律で決まっているらしい。
私の場合、公開されたのが19日だったので、来週の25日まで待たなければならないことがわかり、さらに、今日のレイオフのパッケージをどうするかをいろいろなところに聞かなければならなかったのである。結果的には、私が受ける予定のオファーのうち、どちらかを必ずを受けるという確認だけをして、パッケージは受け取らず、バッジも返さずにすんだ。

オフィスの雰囲気は暗く、また、今日に限って外もどんよりとしていた。
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2007年9月20日木曜日

ついに決めた

今日、ついに決めた。二つもらっていたオファーのうち、最初にオファーをもらった方に、ついに決めた。

最初にもらったからではない。全く違う環境で、インドのコントラクターを使って、新しいものを立ち上げるというところに惹かれた。働いている人達も、お互いを信頼しているようでよかったし、自分達が何をするべきかということについて、皆が同じことを言っていた。これには組織力の強さを感じた。驚いたのは、おそらく700-1000人はいるであろう部署のトップが、新しく入ってくる人間一人一人と必ずインタビューをして、自分達のビジョンを説明してくれるのだ。だから皆が同じことを言う強い組織なんだと思った。

この決断をするために、何人かの人に意見を求めた。いろんな人のいろんな視野からの意見は貴重だし、信頼されているからこそ意見を求められているんだと向こうはわかってくれる。だから、聞いておけば、後で困ったときにもまた助けてくれる。こういう頼るべきことは頼る。人間関係ってこうやって築くものだと思う。
彼らも50-100人くらいの自分の部下をかかえているのに、部下ではない私のために時間を割いて、真剣にえてくれる。ありがたいことだと本当に思う。

今回、仕事先を紹介してくれた人たち、私を推薦してくれた人達、そして私の将来を真剣に考えてくれた人達に感謝すると共に、いつか恩返しできたらなと思う。

2007年9月19日水曜日

また良い連絡があった

今日は、先週受けたもう一つの方からも、また良い連絡があった。

インタビューはぼろぼろだったが、おそらく周囲からの助けによるものだろう。オファーを出すことにしたらしい。さらに追加の電話インタビューが二つがあったが、これは難しいことではなかった。

どちらかのオファーを受けて今の会社にい続ける以上、レイオフされなくなる。というか、正確に言えば、8月29日に、9月21日にレイオフをするという宣告を受けたのだ。だから、9月21日までに社内で仕事を見つければ、レイオフされるわけではない。見つけなかった場合、9月21日にレイオフのパッケージを受け取ることになる。

ちょうど三週間前の今日、そのレイオフ宣告があった。あの日、まさか三週間後にここまで進めるとは正直思ってなかった。だから、9月21日にレイオフのパッケージを受け取る覚悟ができていたし、すっかりレイオフされた気分になっていた。

ところが、実際は間に合いそうだ。たくさんの人にお願いしたが、彼らの助けがあってこその結果だ。

私も人が困っていたら助けられる人間になろう。

2007年9月18日火曜日

インタビュー慣れしてきた

今日も朝10時から4時半まで、お昼をはさんで計7人とインタビューしたが、インタビュー慣れしてきた気がした。

先週のところよりも、内容的にかなり得意な分野だったし、インタビューもリラックスした感じだったということもあるかもしれないが、慣れてきたせいもある。インタビューなので向こうも気をつかってはいるものの、その人がどういう人かというのも見えてきた。

選ぶ上で私にとって一番重要なのは、一緒に働く人がどういう人達かである。特に上の人間のカラーが下に影響するので、上の人間がすごく重要だと思っている。あと組織力のあるところがいい。

これらの点から、今日の二箇所は選択肢から外れた。

2007年9月16日日曜日

また月曜日には進展があった

相変わらず、また月曜日は進展があった。先週インタビューしたところから、内々定のようなオファーの連絡があったのだ。

それと、午後になって急に新たなインタビューの連絡があり、また急遽出かけることになった。

私は来週にしてほしかったのだが、人事は仕事を減らしたいのだろう。現地11:59pm着というフライトで出かけた。AVISのカウンターに着いたのが12時半頃だったが、暇なせいか、カウンターの人がいろいろと話をしたがった。

ホテルの部屋でネットにつなごうとすると、先週と同じく「Too many subscribers are logged in. Please try again later.」とでてきていっこうにつながらない。しょうがないので、先週と同じく、モデムでつないだ。何度トライしてもつながらないと一気に疲れた気分になったが、ピーピーピー、ガーガーガー、ピーッツー、、、、ピーッツーピーッツーという音を聞くとなぜか懐かしい感じがした。

さすがに最後の週はドタバタしそうだ。

2007年9月13日木曜日

渋滞で参った

飛行場まで急いで向かう途中、渋滞で参った。

全く動かなくなったので、一般道を抜けてTollwayから行った。お陰で時間は十分間に合ったのだが、焦っていたので、レンタカーの中にお財布を忘れてきてしまった。

セキュリティチェックもすませ、ふらっと買い物をしようとしたところ、お財布がないことに気づいた。慌ててAVISに持ってきてくれるように頼んだ。最初人手がないからだめだ、メールすると言われた。いろいろ考えたが、やはりお財布がないと空港の駐車場代も払えないので、しつこくお願いしたら、持ってきてくれることになった。

とはいえ、すぐには出会えず、親切なアメリカンの人がAVISに何度も連絡して落ち合う場所を確認してくれた。結局、そのフライトにはのれなかったが、次のフライトで帰ってきた。10時半に飛行場に到着して歩いていたら、日本で働いていたときの営業の人がポツンと座っていた。世の中は狭い。

朝9時から4時までお昼をはさんでずっとインタビューをし、17時間活動していたことになる。
とにかく長い一日だった。

2007年9月12日水曜日

どっと疲れた

今日は予期せぬインタビューがあった。どっと疲れた。

そんなインタビューがあるとは思ってもみなかったので、抜き打ちテストにあったような気分だった。そして何よりも内容が思ってもみなかったような内容だったので困ってしまった。

まずは、全く見たこともないようなものを書かれた為に、自分が考えてわかるのかどうかさえわからなくなってしまった。次に、技術的な質問なら知らないものは知らないので答えようがないが、そのことをどう取り扱うべきかわからなかったのだ。まさか教えてもらうわけにもいかないし、でも聞かなきゃ全くわからないし。プレッシャーを与えて反応を見るテストの意味もあったんだと思う。

でも、インタビューしていた3人のうち、一人はあからさまに途中から興味をなくし、二人はつきあってくれた。私が逆の立場のときには、私はちゃんと最後まで質問すべき内容はする。

背水の陣の状態で仕事を探すのはきついものだ。

2007年9月11日火曜日

インタビューに出発した

インタビューに出発した。

飛行機の隣に座っていた人が、私の本を見て話しかけてきた。実際には本に興味があったわけではなく、日本に4年程住んでたことがあるとかで、日本語が使いたかったのだろう。

今の会社がミリタリーで、中国に売りに行けと言われたが、それが嫌で仕事を探していると言っていた。

先週上海の中国と日本の合弁会社を見に行ったらしい。中国人の方が圧倒的に多いが、役員は日本人が多いとか。日本人は中国語がわからないので、社内で通訳を使っているが、関係がうまくいっていないと言っていた。
彼は「カルチャーが違うからうまくいかないんだ」とおかしなことを言っていた。別に、会社の中で、国と国との関係を改善しようとかいうわけじゃない。国の問題じゃなく、人として個人個人のつきあいができるかという問題なのだと思う。

相手を理解しようという気持ちがあればできるものだ。

2007年9月10日月曜日

朝会社に行った

今日は朝9時半に出社したら結構人がいて驚いた。そういえば私は、レイオフ宣告後、初めて朝会社に行った。

今回のレイオフの後、簡単に仕事を見つけられる人とそうでない人がいる。その人がどちらかは、顔を見れば一目瞭然だ。でも、実はそのどちらかは、レイオフされる前からわかっていたことなのだろう。

思い返してみると、他では今以上の仕事が見つけられないと思っていた人は、周囲の人に気を遣っていたと思う。ところが、仕事が見つけられる人達は、尊大な態度をとっていたと思う。
以前、お客とのミーティングで「この人がいるから私達はここで働けるんだ」と感じさせられたことがある。多分、彼自身が心の中でそう思っていて、それが態度にありありとにじみでていたのだろう。事実、そのミーティングで客とまともに議論できたのは彼だけであったが、あからさまに周囲に「役に立たない奴等だな」という態度をとっていた。

仕事を見つけられる人かどうかは、レイオフのない日本でもわかっていることなのではないだろうか? 日本では、仕事を見つけられない人でも、レイオフの心配がないから周囲に気を遣う必要はない。一方、仕事を見つけられる人は、「自分達のおかげで、お前達はここで働けるんだぞ」と思って態度に出ているかもしれない。レイオフできない日本にはけっこう余剰人員がいて、ワークシェアリングをしているのだから、できる人にとってはいらいらするのだ。

どうするべきか?「できる人が、そうでない人に仕事をわけてあげればいい」という考え方も、奢りだと思う。お互いが本当に必要だと思える関係を作ることが大事なんだと思う。

そういう職場を探したいものだ。

2007年9月9日日曜日

今週は良い連絡があった

月曜日は進展があるのでいい。特に、今週は良い連絡があった。

まず今週インタビューのために2泊3日ででかけることになった。そこで2箇所のインタビューを受ける。

それと今のチームのマネージャーから電話があった。「今のチームごと雇って、それでシリコンバレーにデザインセンターを立ち上げるという話がある。明後日ホテルにその会社の人間がくるが、行けるか?」という話だった。なるほど、おもしろい。チームのマネージャと、チームのリーダになりたかった二人にとって、ポジションを手に入れられるいい話だ。だが、他の人にとってメリットがあるように見えない。

私の場合はビザの問題があるのでお断りした。一旦日本に帰って戻ってくればいいと言われたが、来年の10月まで戻って来れないから無理だといったら、残念そうだった。

とにかく私は、自分のインタビューの準備をしなければ!

2007年9月6日木曜日

10日経ってしまった

10日経ってしまった。考える時間だけはたっぷりあった。

今回のレイオフでは、200人近くいた部署全体がなくなった。半分を売り、残り半分を社内で処理したが、売ったところの中にも、社内で処理したところの中にも、他に引き取られたところとレイオフされたところがある。
評価の高いマネージャのグループは他の部署に行けたが、そうでないグループはレイオフされたのだ。

特に、部下や周囲とうまくやっているかという評価が大切になる。マネージャとして不適格な人間もいるが、そうでないが敵ができる場合もある。ビジネスを成功させるために強引なやり方をすれば、敵をつくることもある。
逆に、ビジネスよりも周囲とうまくいくことを優先して業績があがらなければ、そのポジションから追い出される。

二つのバランスをとるというよりも、それらは矛盾することなのだと思う。

その矛盾する二つを解決する力を身に付けたい。

2007年9月5日水曜日

やりたいことが見えてきた

一週間たって、徐々に自分がやりたいことが見えてきた。

履歴書を書いたり、オポチュニティがあるところの人たちからどういうポジションを探しているかを聞いていると、それを自分がやりたいか考える。それで見えてきたのだろう。逆にシリコンバレーに来てから今まで、そういうこともしなかったから、今の部署で何をしたいかを考えていて、広い意味で自分が何をやりたいかがぼやけていたのだ。視野が狭まっていた。

また、ここから、自分のキャリアのために、仕事内容の転換が必要な時期であることも見えてきた。

レイオフとはいえ、こういう機会を与えてくれたことに感謝している。

2007年9月4日火曜日

週末明けは連絡が多かった

やはり週末明けは連絡が多かった。悪い知らせも、ないよりいい。

いろんなオポチュニティを見ていて思うことの一つに、自分は「地位」と「名誉」と「財産」のどれが一番大事か、ということがある。

シリコンバレーのエンジニアが一つの会社にいる平均年数は5年以下らしいが、そうして会社を転々としても地位は得られない。代わりに、IPOを期待するか、それなりの給料をもらって実作業をする。
特にコントラクターとして働けば時間給なので、正社員として働くよりも稼げる上、上司のことを気にする必要もなく、さらに、気に入らなければやめればいい。上司に限らず、同僚達にも気を遣う必要はない。
そうやって、ずっとエンジニアとして労働力をお金にするのだ。

正社員はコントラクターよりも給料が安いが、一つの会社に正社員として長くいれば、それなりの地位が得られる可能性がでてくる。もちろん、社員ならば、会社から保険等のBenefitも与えられるので、その辺は金銭面的なトレードオフにもなる。

ITバブルの頃は会社を替わることで給料も上がったが、今はそんなでもない。
それでも若いうちは転々としていてもいいが、人はある程度の年になると、地位がほしいし、人の上に立ちたいと思うようになるようだ。だから、ある程度経験を積んで稼げるようになったけど地位が得られなければ、コントラクターとしてその高い労働力をお金に変えることになる。

私は名誉がほしいが、これは難題だ。

2007年9月3日月曜日

進展のない週末だった

こういう時にきついのは、進展のない週末だ。おまけにLabor dayのおかげで3連休だったので、食べて寝まくった。

平日には人とお互いの進捗状況を話したりして、他の人の良い状況を聞くと自分も大丈夫だと感じられる。週末でもウェブでいろいろ職探しをしたりはできるはずだが、やる気がしなかったので私も休むことにした。休み中は返事がないのでストレスを感じる。そういえばレイオフ説明会で、社内の仕事を探すページの使い方の説明があったのだが、そこに書いてあった。「(人事はたくさん履歴書を受け取るので処理に時間がかかる。履歴書を送った後)返事を待つ間、辛抱すること」笑ってしまった。

ところで、ふと思った。USはレイオフすることで不要な部署を潰してしまう。ところが、会社全体を縮小したい場合、レイオフできない日本はその人員をどうするのだろう?その答えの一つは、ワークシェアリングかもしれない。ワークシェアリングという言葉は決して使わないが、大勢でビジットや出張に行くイメージがある。別の答えとしては、早期退職プランを推奨したり、天下りさせたりする。今はどうか知らないが、窓際族にして居辛くするなんてことも以前はあったのだろう。

日本もレイオフするようになったら、日本の平均寿命が短くなるのではないかと思う。

平日はしっかり仕事を探すことにしよう。

2007年8月30日木曜日

頭がフル回転だ

思考力が戻ってきたおかげで、昨日から頭がフル回転だ。こんなのは久しぶりな気がする。今までぼけちゃってたのかと思う。

こちらのレイオフっていうのは、日本のリストラと違って悪い面だけでない。
まだ3週間は社員なので会社にちょこちょこ行っては、レイオフされた人とも話すし、残った人とも話す。今回のここのレイオフの場合、残った人は暗く、レイオフされた人の一部はうれしそうなのである。

実は今はマーケットが良い時で、経験値の高い人ならば簡単に仕事が見つかるのである。すでにアップルに行けそうだと言っている人もいて、かなりうれしそうだった。レイオフが水曜で、金曜には面接も終わっているのだから、なんて素早いのだと驚いた。IPOでS1をちょうどファイルしたばかりの会社に5人空きがあるからレジュメを送るといいと教えてくれる人もいた。

今回のような大きなレイオフというのは、誰がレイオフされるかをこまごま選んだりしない。ここのグループはRFだから残し、後は全部切る、ということだった。だから、私のいたグループは10人全員レイオフされたのだが、その瞬間ものすごい結束力を見せた。まず、個人の連絡先を交換し合い、仕事情報を交換するのはもちろん、面接した先が必要ならばreference もmanagerが書く。そうやって助け合うのがシリコンバレーのカルチャーなのだ。

一方、残ったRFのチームは、他の事業部に異動になったのだが、新しい部署の方針だけ聞かされ、それが今までとは違う上、何をやるのかも何も決まっておらず、暗いのだ。

他の人の良い状況を聞くと、自分もかなりやる気がでてきた。

2007年8月29日水曜日

一日経って目が覚めた

レイオフの通知があって一晩寝た次の朝は、ショックからも目が覚めた。

社内で次を探すなら、やはり三週間後のJob Release Dateまでに移動先の承認までとっておきたい。そうなるとそんなに時間もない。実際には、Job Release Dateから137日後のTermination Dateまでは社員なので退職にはならないが、Job Release Date後は、バッジは返却して社内のイントラネットも見れないし、会社のメールアドレスも使えなくなるので、かなり不便だ。社内にアクセスできない代わりに、DBMを介して今の会社内で仕事を探せるよう会社は手配してくれているが、直接社内情報にアクセスできないと不便なことに変わりはない。

社外で探すなら、今はL1なのでH1かE2が必要。そこでビザの問題がないか確認する必要がある。早速弁護士に聞いたところ、来年の10月までH1は無理だと言われた。USに来て、日本企業で働く気はないので、社外はありえないことがわかった。

いちおう、シリコンバレーの状況を知りたくて現地のリクルーターに聞いてみたが、今は結構空きがあるらしい。特にアナログの市場がHotだと言っていた。それ以外でもいくつか空きを持っていると言っていた。

かなり視界がすっきりした気がした。

2007年8月28日火曜日

昨日レイオフされた

シリコンバレーで働き始めてやっと16ヶ月。やっと慣れてきたかと思っていた矢先、昨日レイオフされた。

親切な会社で、3週間の猶予期間と、その後の137日間の休暇をくれたので、5ヶ月+1週間は給料もある。それで焦る必要もないせいか、昨日は気が抜けてしまって、何も始める気がしなかったので、家に帰ってジムに行ってジャグジーにつかっていた。

それでも時間があったので、どんな仕事があるんだろうかととりあえずdice.comで探していたら、急にネットがつながらなくなった。PCやgatewayをリブートしてみたら、PPPが認識されないと言ってきた。あいかわらず駄目なAT&Tである。しょうがないので寝た。

というわけで、今日から新しい職を探す、私のサバイバルゲームが始まったのだ。