2010年3月22日月曜日

やりたいことたくさん

先週の火曜日にフォーンスクリーニングがあった。結果はぱっとしないと思ったが、候補に残れば人事から来週連絡があるという話だった。ところがどういうわけか今日「今テープアウト前で忙しくてインタビューができないから、4月5日以降に人事から連絡させてもらう。前もって連絡しておきたかった」というメールが来た。なぜ会おうという気になったのかは不明だったが、思い出してみれば、以前レイオフのときにインタビューに行ったときもできが悪くてだめだと思ったのにオファーをもらったことがあった。皆パーフェクトに答えられる人を望んでいるのではない気がする。多分一緒に働けると思える人を選んでいるのだろう。

とにかく、インタビューに進めたのは素直にうれしい。オースティンというところに初めて行くのも楽しみだ。

レジュメデフレ&仕事インフレのためにフォーンスクリーニングに行くのがまず厳しい状況なので、まずスクリーニングやインタビューに行ったものは確実に射止めていかないといけない。

どうも企業側があまりリクルータを使いたがっていないような気がする。知り合いにも、すごいリクルータはマージンをとるので今は避けているといわれたが、どうやらウェブサイトのサーチエンジンを使ってスクリーニングをかけているようだ。人間の仕事を機械に奪われているのは旅行代理店やITエンジニアだけではないようだ。

こうして仕事を探していると自分にはやりたいことたくさんあったことに気づく。今の年齢のままあと200年生きられたら楽しいかもしれない。

2010年3月20日土曜日

共感コミュニケーション

コミュニケーション能力が高いというのはどういうことか?

結論から言うと、他人と共感できる確率の高い人間のことだと思う。常に100%共感できる人が一番コミュニケーション能力が高いと言えるだろうが、そういう人間は存在しない。

共感するためのスキルとして、自分の意思を明確に相手に伝えるとか、相手の言うことを理解するとかいうことが必要となるのだ。そしてそういう人は、得てして相手のことを受け入れる包容力の大きい人が多い。

普通のコミュニケーションでは、ターゲットとなるコミュニケーションの相手というのがいる。まずその相手に心を開かせることから始まる。一番簡単な方法は相手との共通点を見つけることだ。これは人間に安心感を与える。次に相手の言っていることを理解しようとする。これによって相手はこちらの話も聞くという体制を作ってくれる。そうして相手が受け入れる体制を作り、相手がどういう人間かを理解したところで、相手の反応を見ながらこちらの意見に共感してもらえる方法を模索することになる。このプロセスは一方だけでなく両者が同時に行う必要がある。

昔のセールスはターゲットの顧客に対し、そのコミュニケーションスキルを使って売りこみをしてきたプッシュ型だ。だが、ネットマーケティングは違う。顧客を絞るのでなく、自社のブランディングをすることで不特定多数の顧客を呼び込み、自社製品に関心を持ってくれた顧客に勝ってもらうプル型だ。人間は売り込みにきたものに対しては警戒をしていきなり心を開かない傾向にあるが、自ら興味をもったものに対しては警戒をせずいきなり心を開いている傾向がある。

ネットのコミュニケーションはそのプル型だ。自己ブランディングをし、それに興味を持ったり共感してくれた人間のみを対象にするプル型なのだ。プル型の利点は、相手に心を開かせて安心させるところが必要ないことだ。最初からこちらの話を聞く体制を持っている。だから自然と共感してくれることが多い。しかし、あまり個性的な意見を言っているサイトに対しては、非常に強く反発し、攻撃さえする。理由は明らかだ。相手がどういう人間かをお互いに理解しようとしてはいないし、共感しようとさえ思っていないからだ。それも一種のコミュニケーションだろう。おそらく犬も威嚇をしたりしっぽを振ったりして自分の感情を表現する。

共感ということは、言葉という高度な道具を持った人間のみが持つ高度なコミュニケーション能力なのだと思う。言葉により、より相手を理解したり相手に理解してもらえたりするのだから。そして、相手に受け入れられることで得られる安心感という感情が、その共感を必要としているのだと思う。

2010年3月19日金曜日

精神的に自立しよう

日本人は幼く見られる。アジア人の中でも特に日本人は幼く見られると思う。なぜか?

私の周りの日本人を見ると、他人に対する依存心が強いと思う。自分の人生を自分で切り開こうとかいう以前に、すぐに「あなた(私のこと)が○○だから」と言い出す。自分がどうしたいとか自分はこうしたらいいと思うとかいうことを、自らの意思で言えない。「あなたはどうしたいのか?」と聞くと答えがでないのだ。自分がどうしたいかということを考えることすらしていないからだ。ただ、どこかで聞いたこととか読んだことに関してだけは、「こうすればいい」と答えがある。自分で考えた結果でないということに本人は気づいていないが。

例えば日本で働いていたとき、レビューのときに「次は何を学びたいか?」という質問にほとんどの人は答えられない。「何があるんですか?」と答えてくる。私が彼らの一人一人の次のステップのオプションを何日もかけて考え、「これがいいと思う」と言うと、「じゃあやります」と言ってくる。たいていのレビューでは、答えられない人はそのまま放置されているだろう。

身近な人間でも同じことだ。「○○したい?」と聞くと、「あなた(私のこと)がやりたいならいいよ」と答える。私は自分がしたいことは「○○がしたいけど、いい?」と聞くので、相手に「○○したい?」とは聞かない。しょうがないので「あなたはどうしたいの?」と聞くと全く答えられない。たまに「これがやりたい」と言いだすと思うと、思いつきや憧れで言ってみただけで、明らかに実際に考えていった答えではない。でもこれが典型的な日本人なのかもしれない。

育った環境からくるのかもしれないが、精神的に自立していないからだと思う。社会に守られて生きているため、受けるストレスの強さも全然違う。インターナショナルに認めてもらうためには、もう少し自立する必要があるかもしれない。

2010年3月18日木曜日

自分にできることを精一杯やる

自分にできることを精一杯やる。当たり前のことのようで、最近忘れられているような気がする。

なぜか?三つ理由があると考える。一つは「××だからできないんだ」と言い訳をして通ってしまうから。次に、手を抜いた方が楽だから。そして最後の理由は自分ができることが何かをちゃんと認識していないから。

一つ目の言い訳のことだが、昔はよく「言い訳をするな」と言ったものだが最近はあまり言わなくなった。実は、その言い訳の理由に対する許容範囲が広がったからだと思う。例えば「土日や祝日、休暇中だから」「子供の行事があるから」とかそういった理由は昔は通らなかった。「忙しいから」が理由になる場合すら今はあると思う。

楽という点に関しては、生活が豊かになったせいだろう。楽しても生きられるようになってきたのだ。

最後のことが今一番重要だと思う。最近は「自分ができること」が何なのか真剣に考えない。それは、「自分ができないこと」を認識していないからだ。
実は「自分ができないこと」を認めるのは人間には難しい。自己否定の感情を伴うからだ。だから自分でなど証明しない。他人によって証明されるまでは、できるかどうかについてあまり考えようとしない。しかし、「自分ができないこと」に直面させられたとき、人間は本気で自分にできることを考え、「自分にできること」を必死に探す。

挫折した人間というのは「自分にできないこと」を認めさせられる。だから這い上がるため、自分にできることに必死になる。多分挫折を経験した人間が強い理由はそこだと思う。ぬるま湯に浸かっていると、必死になるのは難しくなる。たまにはどん底に落ちた方がいいのだ。

2010年3月17日水曜日

人とのコミュニケーションとは

人に必要とされること、人に頼りにされること。これらは人間に不思議な甘い感覚を与える。さらにその期待に応えられたりすると、満足感さえ生じる。

特に動物の本能なのだろう、男性は女性に頼られると、たいていうれしくなる。その甘美に酔いしれる人も多い。あるいは、上司は部下に、親は子供に、先生は生徒に頼られると非常に喜ぶ。性別のことも含めこれら特定の場合には、頼られる側が頼られるべきであると思っているところがポイントなのだ。つまり、頼られるべきであるということが潜在的なプレッシャーになっており、逆に頼られなかったらどうしようという不安もある。頼ってもらったことでそのプレッシャーから解放されると同時に達成感に近い安心感が生まれるのだ。

報連相という言葉があるが、上司も先生も親も、自分に忠実でよく話しかけてくる部下がかわいいものだ。そして、メールでやりとりしただけよりも電話、そして電話で話しただけよりも直接顔を合わせた方がだんぜん印象がよくなる。。私はこれがコミュニケーションなのだと思う。
ネットの発展は、人的つながりというネットワークを発展させるが、コミュニケーションは発展させないことをはっきり認識しておくべきだろう。特にアノニマスで好き勝手を言うようなサイトは、コミュニケーション能力を低下させる可能性がある。ここのように自分の好きなことを一方的に書いていることはコミュニケーションとは言わない。例えネットで顔と名前を出してもだ。人とのコミュニケーションとは、相手のことを考え、相手の気持ちになってする双方向の会話のことだ。コミュニケーション能力を上げるには、実際に人と話し、自分の言葉や表情に対する相手の反応を見て、相手のことを考えるということを学ぶしかない。

アメリカの教師は給料が非常に安い。給料が安いからいい人が教師になろうとはしない。鶏と卵だ。学校とはこのコミュケーションを学ぶ上で最も重要な場所であり、その教師の給料が安いということは問題なのではないかと思う。

2010年3月16日火曜日

悔い改めるとき

仕事を探していると、自分の足りない部分に気づかされる。どうして普段はあまり気づかないのだろう?これでもかというくらい、自分と向き合っているからだろう。

実は以前のレイオフから2年間、仕事をしながら次のキャリアについて転職についていろいろ考えていた。レジュメも書いていた。それなのに、こんなにも自分と向き合っていなかったのかと驚いた。自分のことを考えていたのだから自分を見ていたことは間違いない。だが、自分のネガティブな部分には向き合っていなかったのだろう。

こういう時間は、人生にとって貴重だ。挫折が人間をたくましくするように、今の時間が自分を成長させてくれる。

一つ一つは小さなことだが、例えば、相手が失礼だったり態度が悪いと、今まで礼儀正しくしててもバカバカしくなってそれをやめてしまう。でも、たぶんそうじゃない。自分が相手にも礼儀正しく振る舞ってほしいのならば、あくまでも自分は礼儀正しく振る舞うべきなのだ。「自分をこう扱ってほしい」というように相手を扱ってあげることが大切なのだ。こんな当たり前のことがなぜわからなくなったのか、それとももともとわかっていなかったのか?いずれにしろ、そういう自分の足りない部分に気づかされるのだ。

もしも人間の驕りが経済の破綻を招き今の状況を引き起こしたのだとしたら、これは社会という自然界からの戒めなのかもしれない。宗教家ではないが、悔い改めて謙虚になれということだとすれば、きちんと今の現状に向き合って改心した人から立ち直っていけるということなのだろう。

2010年3月15日月曜日

努力を惜しむな

スカイプをオンにしていたら、スカイプに知らない人からチャットでパーティのお知らせが来た。広告だろうが、おもしろいことを考えると感心した。これで来る人がいるのかしらと思ったが、ダイレクトメールだってそれで買う人がいるから出すのだろう。

始めから無駄だと思ってやらなかったら何も起こらない。昔、聞いたことを思い出した。頭のいい人は先まで見えてしまうのでできないとわかりやらない。頭の悪い人はそこまで見えないのでやってみる。すると、思いがけない発見が起こったりすると。

こういう状況だと無駄だと思ってやらないことが多い。景気がいいと、うまくいけばラッキーととりあえずやってみようという気になるのに、景気が悪いと途端に皆確実なことだけやりたがる。成功する確率が減るからだろう。例えば景気がよければベンチャーに入ってIPOを期待する人がたくさんいるが、景気が悪いと安定した起業に入りたがる。IPOの確率が低いから、リスクをとらず確実に稼げる方法をとるからだろう。

そうしていると、不思議と思考回路や行動パタンが無駄だと思うことをしなくなる。もともと人間とは楽をしたいと考える生き物なのだろう。たまたまうまくいきそうなものがあればそれに対する期待と興奮で無駄なことをすることがあるだけなのだと思う。だから、その期待と興奮をもてないと、無駄なことはしない。

でも、それでは何も起こらない。今私たちに必要なのは、例え無駄だと思ってもそれをする気力。先の見える頭のいい人のふりをして「やっても無駄だ」ということではなく、頭の悪い人になって「やったら何か起こるかもしれない」と思うことだ。どんな努力も惜しんではいけない。

2010年3月14日日曜日

ジョブマーケットでのアイディア

ジョブマーケットを利用した様々なビジネスができている。

一番多いのが有料ジョブサーチエンジン。IEEEのように期間限定で会費を払うと使用可能というもの。ついでに転職成功体験者の体験スピーチ会も開催し、さらにお金をとる。

次に多いのがレジュメ代行やレジュメレビュー。数多くのレジュメの中からあなたのレジュメを際立たせます、というふれこみのもの。

それから、クレジットのスコアをチェックしますというもの。かなりの企業が採用の際にクレジットスコアをチェックしているので、自分のスコアをチェックして、間違ってついた未払いや遅延を消しましょうというもの。

似たようなファイナンシャル系のもので、あなたの資産についてファイナンシャルアドバイザーがアドバイスしてくれるというもの。

世の中には実にいろいろなことを考える人がいる。すごいアイディアにあふれていて、すばらしいと思う。そのすばらしいアイディアをもっと世の中を改善する方向に向かせると、もっとすばらしいのだが。

2010年3月13日土曜日

アメリカに貢献する

なぜアメリカで働くのか?日本で働かないのか?

アメリカに来てアメリカの会社で働くということは、アメリカという国に貢献することを第一に考えなければならない。日本とアメリカの両方の利益になることが一番望ましいが、ときには日本の利益よりもアメリカの利益を優先させる必要がある。アメリカが移民を受け入れてアメリカで働くことを許可している理由自体が、その移民がアメリカに貢献することを期待しているからだ。その移民を救おうと思って受け入れているわけではない。

これは会社と同じことだ。会社は個人の利益を目的として各人を雇うわけではない。当たり前のことだが、会社の利益のために、会社に貢献できる人間を雇うのだ。同じことだ。個人のやりたいことを優先し、会社の利益を無視する人は雇わない。

例えばクライスラーのセールスとして働いている日本人がいるとして、その人はトヨタやホンダよりもクライスラーを客に売り込む必要がある。当たり前のことだ。

日本人として日本を第一に考えるなら日本で働くとか、アメリカでも日本企業で働くのがいいだろう。日本で外資系で働く日本人は不思議とあまり他の日本企業のことを考えず、その外資系起業の利益を考える。日本人ばかりが働く外資系企業では不思議とアメリカ企業という意識はあまりなく、日本企業のように感じるものなのだ。日本人同士で日本人から見たアメリカ論を展開しているにすぎないからだろう。それに、それら日本人の中に外資系で働くということがステータスであるという気持ちがあることも否めない。だから、彼らはアメリカとか日本とか、国のことまで考えるには至らない。

アメリカに来てアメリカ企業で働くと、そういうことまで考えるようになる。周りの人間がアメリカ人から見た日本という観点で話をするからだと思う。そういう他人の視点というのを理解できるようになることが大切だ。

今の自分にはアメリカに貢献することが大切だと思う。自分の国のために貢献したことによってその国の人間から受け入れられることになるからだ。日本のことだけを考えて日本のためだけに貢献してきた人間を他国が受け入れることはないだろう。日本が国際社会に受け入れられて国際機関の一員としてやっていくためには、まず他国へ貢献することが大切だ。

2010年3月12日金曜日

ボランティア活動の意味

人間というのは不便なもので、頭でわかっても、実際に自分で体験しないと実際のところはわからない。バーチャルリアリティがこれをどこまで補うかは楽しみなところだ。いろいろな苦労をバーチャルに体験できれば、精神的に鍛えることが可能かもしれないが、逆に緊張感がなくなってしまうかもしれない。

とはいえ、それはかなり先のことなので現状について話すと、まず人間は自分が困らないと、他人がどんなに困っているかも実際にはわからない。つまり人を助けられる人格者になるためには、自分はそれに等しいかそれ以上のつらい経験を味わうことが必要になる。そのときに他人に助けられると、次から今度は他人を助けられる人間になれるのだ。「情けは人のためならず」という言葉を常に覚えていればよいのだろうか、なかなかそうはいかない。だから、助けられてやっとそういう人間になれたりする。

アメリカではボランティア活動が就職にとってプラスに働くと言ったが、なぜだろうか?まずは、社会に貢献している人間を評価するということだろう。それに他人に貢献している人間は会社にも貢献できると考えるのかもしれない。社会に貢献するということが大切だという考えは日本も同じだろうが、それを評価する仕組みがないからボランティアに積極的には参加しないのだろう。次に、アメリカは弱肉強食の社会だ。つまり、弱者がでる。弱肉強食の世界を維持するためには、強者は弱者を救う必要があるのだろう。彼らがよく寄付をするのもそういう背景のような気がする。強者が大量にお金を儲け、それを弱者に寄付をする。そいう社会の仕組みのような気がする。

ところでボランティアという単語を英語の授業で習ったとき驚かなかっただろうか?私はものすごく驚いた。「ただで人を助けること」だとばっかり思っていたら、「自主的にする人」だったのだ。その活動の結果は同じでも全く意味が違う。大切なのは「自ら進んで自主的にすること」がボランティア活動にとって大切なのだ。他人に決められたり強制されるものではない。どうすれば人間を自主的に動かせるのか?やはり自主的にやった結果を評価する仕組みが必要なのだ。だから、そういう人間を評価するカルチャーや就職活動で有利に働くとかいう仕組みがあるのだろう。

日本もそういう仕組みを取り入れるといい。頭ごなしに自主的にやることが大切だと言ってもなかなか難しい。だからそういう仕組みを社会が作っていくことが大切なのだ。

2010年3月11日木曜日

ソーシャルネットワークの意味

アメリカでは履歴書にソーシャルクラブやボランティア活動への参加が資格のように意味をもつ。そういったソーシャル活動に参加しソーシャルネットワークを持った人間がより評価され、それがその人のアイデンティティを形成していく。特に会をリードしているということが高く評価されるのだ。そういったリーダーシップを持った人間が特別な目立つ人となる。目立つことをよく評価しない日本とは逆だ。

こういうバックグラウンドを考えれば、アメリカでSNSが普及しやすかった理由は自ずと見えてくる。ソーシャルクラブは日本でも多少はある。主婦同士で食事に行ったりお料理を教えたり。ところが働いている人たちにはあまりないのが現状だ。まず、サラリーマンは朝から晩まで平日は働き、土日は家族と過ごす。昔は平日に会社の人と飲みにいくことも多かったが、最近は減ってきた。そういったバックグラウンドの違いがわかれば、日本で普及しにくい理由もわかる。

若い人たちは新しくネット上でのソーシャルネットワークを作ることもあるが、これの普及の理由が見えない。というのも、もともとソーシャルクラブではリーダーシップを含めたコミュニケーション能力を訓練する場なのだ。人間は火を使い、道具を使い、言葉を使うことで進化を遂げてきた動物である。言葉によって思考と双方向コミュニケーションを可能にし脳を進化させたのだから、言葉による思考とコミュニケーションの進化が必要なのだ。

SNSが思考とコミュニケーションを進化させることができるかどうかが、これからの普及を左右するだろう。

2010年3月10日水曜日

メディカル市場入門1

今日聞いたことを忘れないように書き留めておく。

メディカルには大きく3つのカテゴリーがある。
1. Big-Box - これはMRIやCTSCANのような大病院にある大きな装置。100-1000台程度で、一台一台の装置がすべてその設置された部屋毎カスタマイズされる必要がある。大企業が製造する。
2. Small-Box - Ultra soundやImagingのような各お医者さんが持っている医療機器。これも大企業が製造する。
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3. Personal - 個人向け端末。個人や各家庭が家にもち、医者を必要とせずに自ら使うもの。大企業である必要はない。

1&2と3の間には大きな境界があり、目的や対象が大きく異なる。1や2をやりたいなら、大企業で1や2に関わってそのバックグラウンドを持って部門をスプリットするべき。そうでなければ3。

3の需要が広がる社会的背景。アメリカは特殊で国民皆保健ではない。実は、2%の人がコストの60%が医療費、5%の人がコストの80%を医療費に費やしている。そして人生の最後の年に最も医療費がかかっている。医者に行かずに自分でメディカルチェックをする方法があればこのコストを減らせる。逆にカナダやヨーロッパの場合には、国民皆保健であるかわりに異常に待たされる。自分でチェックした結果を医者と共有できれば、その医療機関の負担を軽減できる。日本の場合には高齢者が多い。だから個人向け医療器の需要があるはず。

3にとって重要なのは技術力ではない。イノベイティブなサービスを提供できるかとメディカルとしての政府からの認証だ。例えばiPhone Appliで似たようなアプリが買えたとしてもそれはメディカルとしての認証がなく違法だ。その認証を得るためにISO13485のような品質の認証を得る必要があり、これにかなり時間を費やされる。そしておもしろいことにメディカルのリサーチャーたちはパテントとか考えないし、自分の名前を売ることもいやがる。彼らは政府やいろいろな寄付によって研究をしており、その状態でいたいので、そこの承認なしに目立つことをするのは嫌がる。しかし、自分の研究を世の中のビジネスに使ってもらいたいと思っているので技術を提供してくれる。だから、そういうコネクションをつくることで、ビジネスをやっていくことができる。

もっといろいろなことを聞いたが、とりあえずはここまで。

2010年3月9日火曜日

「聞くのはただ」「失うものはない」

アメリカ人がよく言う言葉でおもしろいと思うものが二つある。

「聞くのはただだよ。」ところが、聞くのにお金をとるところがある。日本にあるアメリカ大使館だ。ビザに関する質問をしようとしたら、一回につき2129円かかるとあった。一回につきというのは、電話でもメールでもそうで、例えば大使館からの返答メールにもう一度質問をするにも、さらに2129円払う必要がある。聞くのはただだというアメリカ人の感覚が無駄な質問を増やし、それにフィルターをかけるためにチャージしたのだろう。おもしろいことだ。あまり無意味なことを聞いたり同じことを何度も聞くのは悪いと教育された私たちの感覚からすると、実に興味深い。

「何も失うものはない。」これは一歩が踏み出せないときに、背中を押すいい言葉だ。漠然としているが故に不安が生じる。その漠然としたものが何かがわからないから漠然としているのだが、人間はわからないものに対して恐れを感じる。だから、その漠然としたものが何かということを追求するかわりに、逆にその不安に値するものがないとうことを示せば恐怖はなくなるのだ。人間は失うことを恐れる。だから、失うものがないと思えば思い切ってできるのだ。

ということで、昨日フォーンスクリーニングの電話がかかってきて、一時間半後にかけてもらうことにしたのに、電話がなく、3時間半もたってしまった。そこでしびれをきらして自分でかけたらその場でフォーンスクリーニングが終わってしまった。そしてその場でじゃあ人事にインタビューのトラベルの手配を頼むからと言われて切った。
次の日、現地の3時になってもかかってこない。アメリカ人の金曜は早い。特に人事なんてとっくに帰っているかもしれない。そこで次の日再び「昨日は電話ありがとう。ところでインタビューの日決まった?」とお礼がてら電話をしてみた。そうしたら「今あなたへのインビテーションを書いていたところだ。日にちは私が決めるのでなく、人事があなたにコンタクトして決めることになっている」と教えてくれた。いつがいいのかと逆に聞かれたから、再来週は都合が悪いから来週がいいといったらわかったといってくれた。

聞くのはただだし(携帯電話代は固定通話額の中に十分入るので問題ない)、失うものは何もない。ただ、これはやりすぎるとさすがに嫌がられるので気をつけた方がいい。

2010年3月8日月曜日

パラダイムシフト「私がやる」

世の中には評論家が多い。「あれはだめだ。ああしなきゃだめだ。そこが問題だ。そうするべきだ。」と他人の批評をするどころか、自分達の会社や国、世の中のことさえ人ごとのように批評する。「わかっているならば、なぜ自分でそうしないのか?」と聞くと決まって彼らは「○○だからできないんだ」と言い訳をする。結局同じ穴の狢なのだ。

他人がやるべきことに「ああしろ、こうしろ」と言うのは誰でもできる。本当に誰にでもできる。簡単なのだ。難しいのは自分がやること。実行すること。他人が造ったものを使うユーザになってはいけない。自ら造り上げていくことが必要なのだ。

今の世の中に評論家はいらない。「私がこれをやる」と自ら立ち上がってやる人間が必要なのだ。

失敗することを恐れず、周囲の批判を恐れず、立ち向かっていく勇気。最初は「そんなもの」といってばかにされるだろうし、誰も相手にしないだろう。それを乗り越える覚悟。

最近の自分には不思議と「私がやらずして誰がやる」という思いが強い。世の中の不景気が私にこんな気持ちにさせてくれたならば、今の状況に感謝したい。

2010年3月7日日曜日

ITエンジニアの行く末

クラウドコンピューティング、シンクライアント、コンピュータのバーチャル化によって、ITエンジニアが職を失っている。景気が悪くなった途端、企業がまずカットしたのがITコストだからだ。シンクライアントによるコストカットはすなわちITエンジニアの失業を意味したのだ。

彼らはこれからどうするのだろう? 一部の人には、サーバを所有する企業や特定のデータベースを管理する企業への転職があるだろう。それ以外の人は、その今までのスキルを活かせる方法があるのだろうか?

実際活かす方法がなくて仕事を探している人が多い。彼らの場合、既存技術で既存市場を深堀してももう出てこないので、新規市場という中国へ行く方がいいのかもしれないが、私自身もでは実際に中国に新規市場があるのかわからない。

まだこれからデータベースはどんどん加速的に増えていくので、その量がある一定量を超えたとき、再びデータセンタでメンテナンスの人間を必要とする可能性がある。景気回復よりワンテンポ遅れた需要になるだろうが。

2010年3月6日土曜日

パソコンの行く末

私がパソコンを触り始めたときはIBMやNECのパソコンには黒い画面に薄く字が映っているだけで、しかもすぐにスクロールされてしまうくらい行数も少なかった。パソコンとは大きなスタンドアローンの計算機みたいなものだった。

それが就職活動をしていたときにはSunがComputing is networkingとうたっており、マイクロソフトもそれに続いた。モデムもいつの間にかイーサのケーブルになり、そしていつの間にか無線になっていた。

そして今CitrixはComputing, transformedとシンクライアントによるバーチャル化がいよいよ始まることを告げている。クラウドの始まりだ。企業のパソコンがシンクライアント化すると、デルに入っていたインテルのCPUがまず影響を受けるのだろうか?インテルの売り上げが再びIBMの売り上げに戻っていくように思える。マイクロソフトはどういう基準でライセンス量を決めるのだろう?

このバーチャル化だが、企業にとってみれば端末代のみならず、システムサポート代や設備費がはるかに安くすむため、すぐに導入していくだろう。パソコンで儲けていた企業は、個人端末や家の端末の市場へと移行しないと、あっという間に売り上げが落ち込んでいく。今年この変化にいかに対応できるかが鍵になる。

2010年3月5日金曜日

半導体エンジニアの行く末

半導体のエンジニアの数はすでに飽和しており、今後減っていくだろう。彼らはどこへ行けばいいのか?

今の会社は若いマネージャーで技術力のないエンジニアばかり。景気のよかったときは猫の手も借りたい状態で、実際の設計は外注だったしマネージャーはマネージメントだけすればいいから技術力はいらないという考えだった結果だ。
それに対し、実際に仕事をしてたシリコンバレーのエンジニアは設計の技術はあるが、彼らの給料は中国やインドのエンジニアの3−4倍はするので、これからリーズナブルな量産品の市場を狙っていく会社の設計者としては高すぎる。

一方、設計やソフト開発をインドの外注に移したときには、アメリカにいるインド人をマネージャーにして重宝した。ところが今は、中国に設計を移しているので、アメリカにいる中国人をマネージャーにして重宝している。

アメリカにいるインド人や中国人は自分の国に帰らないと仕事がなくなるのだろうか?しかし自国で働くということは、安い労働力として期待されているわけであり、すなわち給料が下がる。

若ければソフトを勉強してソフトにうつるという手もあるだろう。今後ソフトの方が仕事は見つけやすい。あとの余剰エンジニアはおそらく路頭に迷うのだろう。

2010年3月4日木曜日

苦労の数だけチャンスが増える

私は「若いときの苦労は勝手でもしろ」という言葉が昔から大好きだ。なぜ若いときという条件付きなのかはわからないが、苦労をしていない人の話よりも、苦労を乗り越えてきた人の話の方が断然魅力的で人に聞いてもらえるし、内容が人間として成長しているように感じる。トントン拍子にうまくいったなんて話は参考にもならないし、感動もしない。

実は、苦労話をして拍手をもらっている人を見て少しジェラシーを感じている自分に気づいたことがある。私にもそんな苦労話があったらなと思って。それから人生を選ぶときは無意識に敢えて一番困難そうな道を選ぶようになってしまったように思う。それを体当たりで乗り越えて体験談として話すと、皆が興味を持って聞いてくれる。これが実はうれしいのだ。

苦労をしただけでは話が盛り上がらない。苦労をこうやって乗り越えてこんな教訓を得たという話ができ、変わった自分を見せることで、他人を感心させることができる。インタビュアーは、苦労知らずの人間よりもそれを乗り越えた人間を評価する。だから、それが次へのチャンスをなるのだ。

今日、カリフォルニアの州立大学で授業料32%値上げと職員カットに反対する学生がストライキをしたらしい。カリフォルニアだけでなくいろいろな州立大学で授業料値上げをしている。この厳しい経済状況のため、大学にあてる予算を削ったのだ。バイトで授業料を払っている学生達にとって32%は苦しいに違いない。結果がどうなるにしろ、ここで学生達は自分たちの権利を獲得するために苦労をするのだ。そんな苦労したアメリカの学生たちと、今の日本の学生達は将来渡り合えるのだろうか? 苦労した者の方がチャンスを得やすいのだ。

2010年3月3日水曜日

パラダイムシフト「グローバル」

アメリカ人はクロスカルチュラルだと思われているかもしれないが、実はそれは大きな間違いだ。ほとんどのアメリカ人は他の文化など知らない普通のドメスティックな国民なのだ。ただ違うのは大量の移民がいて、彼らは純粋なアメリカ人ではないという点だ。

以前、会社の地域毎の売り上げ分析のプレゼンで日本の売り上げだけが極端に落ちていた。全体的に景気が悪い以上どこも落ちているのだが、その落ちた売り上げの中で日本のシェアが著しく落ちていたのだ。彼らの結論は、日本の景気が特に悪いということはなく、日本のナショナリズムの問題だと結論づけていた。他国のナショナリズムの問題で自分たちの売り上げが落ちたと平気で他人のせいにするプレゼンをマネージャー達がやっていたのかと思うとかなり愛想が尽きた。なんという会社で働いているのだろうと。

今アメリカ人の雇用を確保せよとしきりに言っている。ところが先日のニュースの最後にちらっとアナウンサーが「フランス人がフランス人の雇用を確保しろと訴え、アメリカ人はアメリカ人の雇用を確保しろと訴えている。そういう垣根をとってグローバルに経済をよくするように考えなければならない」と言っていた。ちょっとびっくりした。こんな言葉を聞いたのはいつぶりだろうか?なぜフランスがあがったのか、偶然か何かあったのはわからないが、もしかしたらフランスの企業が撤退してアメリカ人が職を失っているのかもしれない。
グローバルというのはそういう視点を持つことだと思う。

「あそこの国の国民性は」とか「自分の国が」とかいう言葉を使うとその時点で垣根を作る。その時点でグローバルでなくなる。だから常に世界を視野に入れすべての国を同じように見る感覚を持つことが大切なのだと思う。

2010年3月2日火曜日

パラダイムシフト「アメリカ人」

日本人は「アメリカ人は若い人が自分の上司になっても平気だ」と思っている。これは大きな勘違い。ものすごい問題なのだ。例えば「私は32歳でVPになるオファーをもらった。だが、そうすると、50代の部下を四人持つことになった。」「アメリカでは普通で問題ないんでしょう?」「大問題だよ。彼らはジェラシーをもつ。」こんな話はよく聞く。働いていくために受け入れなければならないと考えるだけであって、人間として持つ実際の感情はどこでも同じなのだ。年齢だけでなく、女性だって同じことだ。

日本人は「アメリカ人は早起きで朝早くから働く」と思っている。これも大きな勘違い。「最近の若い人は朝8時に会社にこないんだよ」「え?そうなの?」なんて話を聞く。年齢が上の人は早くから行くが、若い人は9時10時に行く。日本と同じだ。

日本人は「アメリカ人はいろんな人種が一緒に普通に暮らしてる」と思っている。これも大きな勘違い。例えばレジュメを送ると人種と性別を聞かれる。雇用機会均等法があってヒスパニック7% アジア人2% アフリカンアメリカン7%と決まっているのだ。雇用者の割合だけでなく、アプライしてきた人たちから採用した割合も提出する義務があるのだ。学校ですら枠を決められている。

つまり、強制されているが故の結果であり、皆根は同じ人間なのだ。

2010年3月1日月曜日

リクルータやカウンセラーの行く末

完全な求職者過剰のデフレによりjob marketが広がり、仕事を探している人が仕事が探せず、リクルーティング会社でリクルータやカウンセラーとして働き始める人がたくさんいる。雇う側の企業が客とすれば客は少ないが、雇われる側の求職者を客とすればその市場は大きいのだ。つまり求職者からお金をとろうという企業が異常に成長しているのだ。

通常リクルータは人材を紹介したということで、企業からお金をもらう。つまり客は企業であり、こういう状況下では求職者にはあまり気を遣わない。

これに対し、アウトプレースメント企業は、求職者からお金をとり、レジュメやインタビューサポート、ウェブツールや場所の提供など、転職経験者のアドバイスを売る。今ほとんどの企業がジョブカットをし続けているが、そのときに企業側がそのお金を払うので、実際には求職者から直接等いうより、ジョブカットをした企業が払っているということになる。
これ以外にも、有料のジョブボード、有料のリクルータ紹介所、レジュメやインタビューのセミナー等、求職者からお金をとる市場が急速に成長している。

景気が回復して転職が難しくなくなったとき、その求職者をターゲットとした市場で働く彼らは一気に職を失うだろう。就職しやすい市場で転職に精通した彼らが転職するのは簡単だろう。しかし、その転職先で彼らは何をするのだろうか?そして、いろいろな企業のサラリーやベネフィットに詳しくなった彼らがその企業で満足するのだろうか?ジョブホッパーとして生きるのかもしれない。