2010年1月31日日曜日

人間は考える葦である

質問をしてすぐに答えがでてしまうと、人間は自ら考える必要がなくなる。いつでもどこでもつながるネット、そこにあふれる情報を楽しく読んだり聴いたりしていると、自ら考える時間がなくなる。つまり、簡単にほしいものが手に入ると、それを手に入れるための努力をしなくなる。当たり前のことだ。

パスカルが徹底した禁欲主義者だった理由はそこにあるのかもしれない。徹底した禁欲主義者だったからこそ、その欲求を満たすために、必死に考えた。だから、「人間は考える葦である」と言ったのだろう。

中国は、豊かになろうと必死でがんばる。欲求を満たすためにがんばる精神、まさにそれがハングリー精神だ。かつての日本もそうだったのかもしれないが、今の日本にはあまり見られない。楽な環境というのは思考力や精神力を奪う。

実はアメリカという国も同じなのではないかと思う。新しい国だったから、必死でがんばってきたのではないだろうか。必死でがんばったからこそ大量の成功を収めることができた。そしてその成功に過信していたために、ガバメントモーターズなどと呼ばれる状況に陥ったのではないだろうか?

日本企業も同じだろう。戦後必死でがんばって成功してきた。その過去の成功という亡霊にとらわれると、次は日本企業がガバメントモーターズのようになってしまうだろう。まだ遅くない。必死になってみるときだ。

2010年1月26日火曜日

質問をしなくなったその先には?

英雄ポロネーズを聞いていて、英雄というのはジャンヌダルクみたいなのかなと想像してみた。そこでふと、ポロネーズって誰だろうと思ってしまった。調べてみると、全く違った。ポーランドの舞曲をさすらしい。

今はたいていのことはネットで調べればわかる。というよりも、自分が信じることのできる回答がそこにある。信じるに足ると思える回答に行き着くと、人間の知りたいという欲求は満足されるらしい。

ネットが普及する前は、わからないことがあると、広辞苑や辞書をひくか、人に聞かねばならなかった。だから、「もの知りな人」という価値が存在した。例えば、年長者や上司をさして「あの人なら知っているかもしれない。よく知ってるから。」などということがあった。ところが、最近は知っていることをあまり価値と見なされない。ネット検索で聞くより早く調べられるたり、後で自分でこっそり調べればいいから。もともと人に聞くというのは、自分の無知をさらけ出すのであまり心地よいものではない。

こう考えてみると、年功序列の社会とというのは、知識の量や深さ、もちろん経験値や人間関係の広さなどもあるが、そういったものの上に成り立つ社会だったのかもしれない。今では、上司や親の方が知識がある必要もなく、よって、上司や親が質問されるということがなくなってきたのだろう。

最近、人が人に質問をしなくなってきた、と思う。お互いに質問をすることで知識を共有してきた人間が、共有のデータバンクを見るだけで知識の共有をするようになってきた。知識は得られるが、質問をするというのは、それだけの意味ではなかったのだと思う。相手に質問することによって、回答を注意深く聴くという行為の訓練になっていたのだ。

「聞く入っときの恥。聞かぬは一生の恥」というが、ネットでこっそり調べればいいので恥をかくことがなくなってきた。代わりに、一方通行で、人の話をしっかり聴けない人が増えてきた。それでは、相手に伝わらない。どうすれば伝わるのだろうか?

2010年1月22日金曜日

リソースの再配分

IT関連だった人が、アメリカでは全く関係ない職に移ったりする。アパレル、美容院、介護、清掃、など。以前は不思議に思ったが、今ならなんとなくわかる気がする。社会がそういう構造なんだと。

新卒で成長産業に就職した場合、40年働くとして、その市場が年率二桁の成長を40年間続けることはない。つまり、就職したときにその市場にいた大量の人材が、成長が鈍化するに従って減らされることになるのだ。ワークシェアリングしてリソースは維持し一人当たりの人件費を落とすことで、リソースの総コストは同等に保つことも可能かもしれない。だが、ヨーロッパならいざ知らず、アメリカや日本ではあまりしないだろう。

結果として、減らされた分のリソースがどこかへ移動させられることになるのだが、社会が成長するには、これから成長する市場へと投入する必要がある。これが社会におけるリソースの再配分なのだろう。

キャッシュカウとなったところから問題児に投資を動かすのと同じだ。つまり、これから成長する市場へと再配置する必要があるのだ。ところが現状は、上記したような、アパレル、美容院、介護等、個人経営から抜け出せないような小さな起業をする。上司というのを嫌うからだと思う。上司に気を遣って高い給料をもらうよりも、安くても気楽にやれる方を選ぶのだ。

そういう人生もありだと思う。かまわない。ただ、「そこで自分が成長し続けられるのか?」という疑問が残る。人間が成長しないのに、社会や国が成長するのだろうか?

だから、私も含め、一人一人が成長することにハングリーでなければならないと思う。

2010年1月21日木曜日

フルマラソンだよ、人生は

生まれたと同時に、とある地方のフルマラソンのスタート地点に立たされる。開始のピストルが鳴ったことはわからないのだが、周りがぞろぞろと前に進んでいくのでつられて進んでいく。。。

これが、人生じゃないかと思う。

ゴールまで行く人はごく僅か。途中で嵐にあったり崖崩れの跡があったり、疲れて休んだり歩いたりする。さらに、途中で怪我をして棄権する人も、疲れてリタイアする人もいる。

私の場合、途中で他のレースに興味をもち、最初のレースを離れ、その他のレースに参加してしまった人生かもしれない。このままこのレースを続けるもよし、元のレースに戻るのもよし。自分の選択だ。

ところで、いったいどの辺まで走ったのだろう?

2010年1月14日木曜日

会社による間引き

事業改変が日本企業で可能なのか?

××の事業を止めて○○の事業をするから××の人材を切って○○の人材を採る、と事業ベースに米国企業は考える。
一方、日本企業は、○○の人材があるから○○をしよう、××の人材がいないから××の事業はしない、と人材ベースに考える。

事業改変とは、事業を売り上げのあがる事業へと変更するものであって、人材をどう活用するかをベースに考えるものではない。運良くそれらが一致すればいいが、そんなことは稀であろう。

投資の選択と集中をする過程において、キャッシュカウとなった既存事業のリソースをどうするかという問題が生じる。新規事業にうまくフィットすればいいば、フィットしない場合、出て行ってもらうか、お金をかけて教育するかしなければならない。お金をかけて教育するなら、考え方が柔軟で先の長い新卒がいい。教育への投資資金が十分にある状況ならともかく、景気が悪いとなると、今まで貢献したが、頭も固く先のより短い人には出ていってもらうしかない。それがレイオフだ。転職のインタビューでその会社に決まらなかった場合、「その仕事が自分にフィットしなかった」という言葉を使う理由がよくわかる。

米国企業と日本企業、どちらが正しいということではないだろう。自分たちがどちらを選ぶかの問題であり、どちらもありなのだ。植物の成長過程において、間引きをするかどうかに近い。弱肉強食の世界では間引きが行われるのだ。

会社の存在意義は「お金を儲けること」だ。そして、社会が成長し続けるためには、会社が成長し続けなければならない。そうすることで、社会が成り立つ。間引きすることでその会社が成長できるかもしれないが、社会全体のバランスを崩してエコシステムを壊してしまっては、元も子もない。だから間引きして強靭になりすぎた企業は、独占禁止法によって罰せられることになる。そうやって、ほどよく競争し合えるよう環境のバランスを整えることが、必要なのだ。つまり、間引きしてひたすら強くなればよいということでもないと言える。

こう考えてみると、私たちは、ほどよく競争し合える場を与えられ、絶対安全圏に入ることは許されず、そのフィールドで常に戦い続けることを求められているということになる。だから、戦うこと、競争することを諦めてしまったらいけないのだろうか?

いい顔ってどんな顔?

38になって思うことがある。若さがなくなると、顔に自分本来の人格が出てくるんだな、と。

子供の頃は親からもらった顔が出やすい。10代から20代は、若さがでる。ここでいう若さとは、より良い遺伝子の子孫を残すため、異性を魅了し、同性と競うため、動物として与えられた本能による自己アピールの一種である。

ところが、40近くなると、今までの人生で作り上げてきた自分そのものが顔にでてくる。責任重大だ。

日本には、若い女性がいい女性のような文化がまだあると思う。生殖機能の高いものが優勢であるという社会は、未熟な社会と言えよう。短命だった昔ならいざ知らず、高齢化し、寿命の伸びた社会では、年をとったが故に美しく意味のあるものがあるという文化を育成する必要があるだろう。

女性に限らず、男性ももちろん、素敵な人生を送ることで素敵な年の取り方をしていってほしい。顔に刻まれたシワも、生え際から出てきた白髪も、髪の薄くなった頭部も、素敵な人生を送ることで、素敵に見えるのではないだろうか?それらを隠すのはもう止めて、それらをどうやって素敵に見せるかを考えていこう。