2010年1月26日火曜日

質問をしなくなったその先には?

英雄ポロネーズを聞いていて、英雄というのはジャンヌダルクみたいなのかなと想像してみた。そこでふと、ポロネーズって誰だろうと思ってしまった。調べてみると、全く違った。ポーランドの舞曲をさすらしい。

今はたいていのことはネットで調べればわかる。というよりも、自分が信じることのできる回答がそこにある。信じるに足ると思える回答に行き着くと、人間の知りたいという欲求は満足されるらしい。

ネットが普及する前は、わからないことがあると、広辞苑や辞書をひくか、人に聞かねばならなかった。だから、「もの知りな人」という価値が存在した。例えば、年長者や上司をさして「あの人なら知っているかもしれない。よく知ってるから。」などということがあった。ところが、最近は知っていることをあまり価値と見なされない。ネット検索で聞くより早く調べられるたり、後で自分でこっそり調べればいいから。もともと人に聞くというのは、自分の無知をさらけ出すのであまり心地よいものではない。

こう考えてみると、年功序列の社会とというのは、知識の量や深さ、もちろん経験値や人間関係の広さなどもあるが、そういったものの上に成り立つ社会だったのかもしれない。今では、上司や親の方が知識がある必要もなく、よって、上司や親が質問されるということがなくなってきたのだろう。

最近、人が人に質問をしなくなってきた、と思う。お互いに質問をすることで知識を共有してきた人間が、共有のデータバンクを見るだけで知識の共有をするようになってきた。知識は得られるが、質問をするというのは、それだけの意味ではなかったのだと思う。相手に質問することによって、回答を注意深く聴くという行為の訓練になっていたのだ。

「聞く入っときの恥。聞かぬは一生の恥」というが、ネットでこっそり調べればいいので恥をかくことがなくなってきた。代わりに、一方通行で、人の話をしっかり聴けない人が増えてきた。それでは、相手に伝わらない。どうすれば伝わるのだろうか?