2009年6月28日日曜日

中国語の標準化

以前イギリス人が、アメリカのある空港のショップでサンドイッチを買ったとき「Can you speak English?」と聞かれたと言った。これは笑い話だが、同時に私にとってはいろんなことが頭をよぎった瞬間だった。

まず、アメリカ人にとっての標準語である英語とは、アメリカンイングリッシュであるのだ。ブリティッシュイングリッシュを知らないアメリカ人が大勢いて、ブリティッシュイングリッシュを訛っていると思って適当にあしらっているのだ。どちらが訛っているのか?ブリティッシュイングリッシュから派生したアメリカンイングリッシュが、世界の標準英語になったということだ。

次に、中国人が13億で世界の20%を占める。アメリカが5%、さらに中国人には華僑がいて、そのアメリカ人の中に中国語を話す人間がかなりいるのだ。インドは人口自体は多いが、その中で英語を話す人間の割合はかなり低いため、あめり英語人口には貢献しない。つまり、世界で最もよく使われている言語が中国語なのだ。

中国語が標準語となる日も遠くないのかもしれない。誰がどうやって、標準語が何かを決めるのだろう?

おそらく、市場が中国ということで、客と中国語で話すことが必要になり、アメリカ企業でも中国語の話せる人間が重宝されていくだろう。社内でも中国語がおおっぴらに使われるようになり、それを受け入れていかねばならなくなる。

健全な企業

上司は自分の好きな人間の自分の下に置きたい。そのために自分の嫌いな人間はきってしまうと何が起こるか?

あまり能力のない人間が媚びへつらい、かわいがられてひきあげられる。能力はあるが故に上司に媚びへつらうことをしない人間は疎まれ、切られる。その結果、能力のない人間ばかりの集団ができあがる。能力のある人間は、コントラクタとしてより高い給料をもらったり、スタートアップにかけてみたり、媚びへつらうことなく結果を出す。

大企業とは一部の頭のいい人間と、それに媚びへつらう人々でできあがっているのか?そんな企業はすぐに縮小させられるだろう。それは、媚びへつらう目的が、個人の利益だからだ。企業人であるというとこは、企業の利益を考えなければならないのであり、自分個人のポジションのために媚びへつらうことは会社の利益と必ずしも結びつかない。各個人が、会社の利益とが結びつくような自分個人の利益を考え、行動することが求められる。

ところが、必ずしも全員がそれを考えられるというわけではない。だから、それを考えることができる優秀な人間が管理職となり、部下の利益を会社の利益と結びつけるように導く。だから会社側の利益を考える管理職というのが必要なのだ。

つまり、健全な企業とは、いろんな人間がいて、それぞれがそれぞれの利益を考えつつも、それが企業の利益と結びついていて、みなが同じ方向へ向かう、そういうものじゃないのだろうか?

2009年6月22日月曜日

常識を捨てて相手を理解してみよう

グローバルな人材の定義というと、ビジネススクールにあるような授業のタイトルを並べることが多い。ちょっとうんざりする。定義よりも大事なのはその本質なのではないか。

私が日本人以外と仕事をするようになって最初にぶつかった壁は、「私にとっての常識は相手にとっては常識ではない」「自分にとっての当たり前は相手にとっては当たり前ではない」ということだ。
私たちは学校で先生から、家で親から「〇〇するのは当たり前」「XXしないのは当たり前」と言われ続けてきた。例えば「目上の人に敬語を使うのは常識」「周囲の人に合わせるのは当たり前」という風にだ。この「常識」や「当たり前」の感覚を取り払うことが最初の一歩だと思う。

あくまでも「常識」や「当たり前」を取り払うのであって、別の新しい「常識」や「当たり前」を身につけてしまったら、それもグローバルではなくなる。他の地域にローカル化されたにすぎない。まあたまにかぶれてしまって「日本って信じられない。向こうでは〇〇が当たり前なのよ」などと言い出す人もいるが、これは他の地域でローカル化されてしまった人の典型だ。

身近な例をあげよう。「ある人にとって10分前集合は当たり前」であっても「私にとっては当たり前ではない」上、私が10分遅刻したとする。その「ある人」にとっては20分遅刻であるのでそれを20分遅刻並に怒ったとする。もしもその人が10分前集合を前提としていることを知っていれば、納得はしないが、その憤りは理解はできる。知らなければ、「たかだか10分で細かい人」と思うかもしれない。

ここで大事なのは、「納得するか」でなく「理解できるか」ということなのだ。相手と同じ「当たり前」を身につければ納得できるのだが、そうすると今度はそれが当たり前でない人の感覚が納得できなくなってしまう。つまり「相手はこう考えるから、こういう反応をするのだ」ということがお互いに理解できれば、わかりあえたことになる。この「お互いを理解しあう」「わかりあう」というのがグローバル化にとって大切なのだ。

理解できれば、相手のことを「おかしい人だ」なんて思わなくなる。「おかしい人」なんて世の中にはいないのだ。もしも「あの人はおかしい」という言葉が口をついて出たら、「自分はあの人のことを理解しようとしたのか」と自問自答してみよう。理解できたら、相手のことを「おかしい」なんて言わなくなるだろう。代わりに「彼はね、〇〇なだけなんだよ。」と言うようになるだろう。

簡単なことだ。人それぞれであり、相手は違うんだということを理解する。まさにダイバーシティだ。そして、相手を理解しようとすること、相手に理解してもらうこと。これがグローバルの本質だと思う。

2009年6月3日水曜日

ストレス計

風邪を引くと熱が出て、体温計で計測することにより体調不良を物理的に認識できる。

ところがストレスがあっても物理的な認識方法がないため、治療が難しい。

物理的に実証できない病を「心の病気」として嫌ってきたから、実態のない病気は病気であるということ自体を認めることが難しいのだ。ストレスに限らず精神に関わる病は忌み嫌われてきた。

病気だと認めてもらえないことほど、病気の身にとってつらいものはない。病気じゃない以上、耐えて頑張らなければならない。熱があるのに5キロのマラソン大会に出場させられるのに近い状態になるかもしれない。熱をこじらせて最悪の状態になることだってある。つまり、軽度のストレスに耐えているうちに重度の精神疾患に発展してしまうかもしれないのだ。

ストレスも測ることによって物理的に示せると、休養できるし、周囲もいたわってくれる。そうやってお互いにいたわれれば、社会がよりよくなる気がする。