2010年3月22日月曜日

やりたいことたくさん

先週の火曜日にフォーンスクリーニングがあった。結果はぱっとしないと思ったが、候補に残れば人事から来週連絡があるという話だった。ところがどういうわけか今日「今テープアウト前で忙しくてインタビューができないから、4月5日以降に人事から連絡させてもらう。前もって連絡しておきたかった」というメールが来た。なぜ会おうという気になったのかは不明だったが、思い出してみれば、以前レイオフのときにインタビューに行ったときもできが悪くてだめだと思ったのにオファーをもらったことがあった。皆パーフェクトに答えられる人を望んでいるのではない気がする。多分一緒に働けると思える人を選んでいるのだろう。

とにかく、インタビューに進めたのは素直にうれしい。オースティンというところに初めて行くのも楽しみだ。

レジュメデフレ&仕事インフレのためにフォーンスクリーニングに行くのがまず厳しい状況なので、まずスクリーニングやインタビューに行ったものは確実に射止めていかないといけない。

どうも企業側があまりリクルータを使いたがっていないような気がする。知り合いにも、すごいリクルータはマージンをとるので今は避けているといわれたが、どうやらウェブサイトのサーチエンジンを使ってスクリーニングをかけているようだ。人間の仕事を機械に奪われているのは旅行代理店やITエンジニアだけではないようだ。

こうして仕事を探していると自分にはやりたいことたくさんあったことに気づく。今の年齢のままあと200年生きられたら楽しいかもしれない。

2010年3月20日土曜日

共感コミュニケーション

コミュニケーション能力が高いというのはどういうことか?

結論から言うと、他人と共感できる確率の高い人間のことだと思う。常に100%共感できる人が一番コミュニケーション能力が高いと言えるだろうが、そういう人間は存在しない。

共感するためのスキルとして、自分の意思を明確に相手に伝えるとか、相手の言うことを理解するとかいうことが必要となるのだ。そしてそういう人は、得てして相手のことを受け入れる包容力の大きい人が多い。

普通のコミュニケーションでは、ターゲットとなるコミュニケーションの相手というのがいる。まずその相手に心を開かせることから始まる。一番簡単な方法は相手との共通点を見つけることだ。これは人間に安心感を与える。次に相手の言っていることを理解しようとする。これによって相手はこちらの話も聞くという体制を作ってくれる。そうして相手が受け入れる体制を作り、相手がどういう人間かを理解したところで、相手の反応を見ながらこちらの意見に共感してもらえる方法を模索することになる。このプロセスは一方だけでなく両者が同時に行う必要がある。

昔のセールスはターゲットの顧客に対し、そのコミュニケーションスキルを使って売りこみをしてきたプッシュ型だ。だが、ネットマーケティングは違う。顧客を絞るのでなく、自社のブランディングをすることで不特定多数の顧客を呼び込み、自社製品に関心を持ってくれた顧客に勝ってもらうプル型だ。人間は売り込みにきたものに対しては警戒をしていきなり心を開かない傾向にあるが、自ら興味をもったものに対しては警戒をせずいきなり心を開いている傾向がある。

ネットのコミュニケーションはそのプル型だ。自己ブランディングをし、それに興味を持ったり共感してくれた人間のみを対象にするプル型なのだ。プル型の利点は、相手に心を開かせて安心させるところが必要ないことだ。最初からこちらの話を聞く体制を持っている。だから自然と共感してくれることが多い。しかし、あまり個性的な意見を言っているサイトに対しては、非常に強く反発し、攻撃さえする。理由は明らかだ。相手がどういう人間かをお互いに理解しようとしてはいないし、共感しようとさえ思っていないからだ。それも一種のコミュニケーションだろう。おそらく犬も威嚇をしたりしっぽを振ったりして自分の感情を表現する。

共感ということは、言葉という高度な道具を持った人間のみが持つ高度なコミュニケーション能力なのだと思う。言葉により、より相手を理解したり相手に理解してもらえたりするのだから。そして、相手に受け入れられることで得られる安心感という感情が、その共感を必要としているのだと思う。

2010年3月19日金曜日

精神的に自立しよう

日本人は幼く見られる。アジア人の中でも特に日本人は幼く見られると思う。なぜか?

私の周りの日本人を見ると、他人に対する依存心が強いと思う。自分の人生を自分で切り開こうとかいう以前に、すぐに「あなた(私のこと)が○○だから」と言い出す。自分がどうしたいとか自分はこうしたらいいと思うとかいうことを、自らの意思で言えない。「あなたはどうしたいのか?」と聞くと答えがでないのだ。自分がどうしたいかということを考えることすらしていないからだ。ただ、どこかで聞いたこととか読んだことに関してだけは、「こうすればいい」と答えがある。自分で考えた結果でないということに本人は気づいていないが。

例えば日本で働いていたとき、レビューのときに「次は何を学びたいか?」という質問にほとんどの人は答えられない。「何があるんですか?」と答えてくる。私が彼らの一人一人の次のステップのオプションを何日もかけて考え、「これがいいと思う」と言うと、「じゃあやります」と言ってくる。たいていのレビューでは、答えられない人はそのまま放置されているだろう。

身近な人間でも同じことだ。「○○したい?」と聞くと、「あなた(私のこと)がやりたいならいいよ」と答える。私は自分がしたいことは「○○がしたいけど、いい?」と聞くので、相手に「○○したい?」とは聞かない。しょうがないので「あなたはどうしたいの?」と聞くと全く答えられない。たまに「これがやりたい」と言いだすと思うと、思いつきや憧れで言ってみただけで、明らかに実際に考えていった答えではない。でもこれが典型的な日本人なのかもしれない。

育った環境からくるのかもしれないが、精神的に自立していないからだと思う。社会に守られて生きているため、受けるストレスの強さも全然違う。インターナショナルに認めてもらうためには、もう少し自立する必要があるかもしれない。

2010年3月18日木曜日

自分にできることを精一杯やる

自分にできることを精一杯やる。当たり前のことのようで、最近忘れられているような気がする。

なぜか?三つ理由があると考える。一つは「××だからできないんだ」と言い訳をして通ってしまうから。次に、手を抜いた方が楽だから。そして最後の理由は自分ができることが何かをちゃんと認識していないから。

一つ目の言い訳のことだが、昔はよく「言い訳をするな」と言ったものだが最近はあまり言わなくなった。実は、その言い訳の理由に対する許容範囲が広がったからだと思う。例えば「土日や祝日、休暇中だから」「子供の行事があるから」とかそういった理由は昔は通らなかった。「忙しいから」が理由になる場合すら今はあると思う。

楽という点に関しては、生活が豊かになったせいだろう。楽しても生きられるようになってきたのだ。

最後のことが今一番重要だと思う。最近は「自分ができること」が何なのか真剣に考えない。それは、「自分ができないこと」を認識していないからだ。
実は「自分ができないこと」を認めるのは人間には難しい。自己否定の感情を伴うからだ。だから自分でなど証明しない。他人によって証明されるまでは、できるかどうかについてあまり考えようとしない。しかし、「自分ができないこと」に直面させられたとき、人間は本気で自分にできることを考え、「自分にできること」を必死に探す。

挫折した人間というのは「自分にできないこと」を認めさせられる。だから這い上がるため、自分にできることに必死になる。多分挫折を経験した人間が強い理由はそこだと思う。ぬるま湯に浸かっていると、必死になるのは難しくなる。たまにはどん底に落ちた方がいいのだ。

2010年3月17日水曜日

人とのコミュニケーションとは

人に必要とされること、人に頼りにされること。これらは人間に不思議な甘い感覚を与える。さらにその期待に応えられたりすると、満足感さえ生じる。

特に動物の本能なのだろう、男性は女性に頼られると、たいていうれしくなる。その甘美に酔いしれる人も多い。あるいは、上司は部下に、親は子供に、先生は生徒に頼られると非常に喜ぶ。性別のことも含めこれら特定の場合には、頼られる側が頼られるべきであると思っているところがポイントなのだ。つまり、頼られるべきであるということが潜在的なプレッシャーになっており、逆に頼られなかったらどうしようという不安もある。頼ってもらったことでそのプレッシャーから解放されると同時に達成感に近い安心感が生まれるのだ。

報連相という言葉があるが、上司も先生も親も、自分に忠実でよく話しかけてくる部下がかわいいものだ。そして、メールでやりとりしただけよりも電話、そして電話で話しただけよりも直接顔を合わせた方がだんぜん印象がよくなる。。私はこれがコミュニケーションなのだと思う。
ネットの発展は、人的つながりというネットワークを発展させるが、コミュニケーションは発展させないことをはっきり認識しておくべきだろう。特にアノニマスで好き勝手を言うようなサイトは、コミュニケーション能力を低下させる可能性がある。ここのように自分の好きなことを一方的に書いていることはコミュニケーションとは言わない。例えネットで顔と名前を出してもだ。人とのコミュニケーションとは、相手のことを考え、相手の気持ちになってする双方向の会話のことだ。コミュニケーション能力を上げるには、実際に人と話し、自分の言葉や表情に対する相手の反応を見て、相手のことを考えるということを学ぶしかない。

アメリカの教師は給料が非常に安い。給料が安いからいい人が教師になろうとはしない。鶏と卵だ。学校とはこのコミュケーションを学ぶ上で最も重要な場所であり、その教師の給料が安いということは問題なのではないかと思う。

2010年3月16日火曜日

悔い改めるとき

仕事を探していると、自分の足りない部分に気づかされる。どうして普段はあまり気づかないのだろう?これでもかというくらい、自分と向き合っているからだろう。

実は以前のレイオフから2年間、仕事をしながら次のキャリアについて転職についていろいろ考えていた。レジュメも書いていた。それなのに、こんなにも自分と向き合っていなかったのかと驚いた。自分のことを考えていたのだから自分を見ていたことは間違いない。だが、自分のネガティブな部分には向き合っていなかったのだろう。

こういう時間は、人生にとって貴重だ。挫折が人間をたくましくするように、今の時間が自分を成長させてくれる。

一つ一つは小さなことだが、例えば、相手が失礼だったり態度が悪いと、今まで礼儀正しくしててもバカバカしくなってそれをやめてしまう。でも、たぶんそうじゃない。自分が相手にも礼儀正しく振る舞ってほしいのならば、あくまでも自分は礼儀正しく振る舞うべきなのだ。「自分をこう扱ってほしい」というように相手を扱ってあげることが大切なのだ。こんな当たり前のことがなぜわからなくなったのか、それとももともとわかっていなかったのか?いずれにしろ、そういう自分の足りない部分に気づかされるのだ。

もしも人間の驕りが経済の破綻を招き今の状況を引き起こしたのだとしたら、これは社会という自然界からの戒めなのかもしれない。宗教家ではないが、悔い改めて謙虚になれということだとすれば、きちんと今の現状に向き合って改心した人から立ち直っていけるということなのだろう。

2010年3月15日月曜日

努力を惜しむな

スカイプをオンにしていたら、スカイプに知らない人からチャットでパーティのお知らせが来た。広告だろうが、おもしろいことを考えると感心した。これで来る人がいるのかしらと思ったが、ダイレクトメールだってそれで買う人がいるから出すのだろう。

始めから無駄だと思ってやらなかったら何も起こらない。昔、聞いたことを思い出した。頭のいい人は先まで見えてしまうのでできないとわかりやらない。頭の悪い人はそこまで見えないのでやってみる。すると、思いがけない発見が起こったりすると。

こういう状況だと無駄だと思ってやらないことが多い。景気がいいと、うまくいけばラッキーととりあえずやってみようという気になるのに、景気が悪いと途端に皆確実なことだけやりたがる。成功する確率が減るからだろう。例えば景気がよければベンチャーに入ってIPOを期待する人がたくさんいるが、景気が悪いと安定した起業に入りたがる。IPOの確率が低いから、リスクをとらず確実に稼げる方法をとるからだろう。

そうしていると、不思議と思考回路や行動パタンが無駄だと思うことをしなくなる。もともと人間とは楽をしたいと考える生き物なのだろう。たまたまうまくいきそうなものがあればそれに対する期待と興奮で無駄なことをすることがあるだけなのだと思う。だから、その期待と興奮をもてないと、無駄なことはしない。

でも、それでは何も起こらない。今私たちに必要なのは、例え無駄だと思ってもそれをする気力。先の見える頭のいい人のふりをして「やっても無駄だ」ということではなく、頭の悪い人になって「やったら何か起こるかもしれない」と思うことだ。どんな努力も惜しんではいけない。